#2 戦国時代「真田信繁~日本一の兵」
村の長老は死してなお尊敬される
今回の SAESON3のテーマは、
「一撃に賭けた男たち」。
「義のため」に無謀とも思える戦いに向かった男たちの存在は、今も我々日本人の心を揺さぶり、愛され続けている。そんな歴史上の人物を当時の庶民たちはどう見ていたのか。その墓の祀り方から紐解いていきます。
また、好評を博している「庶民のお墓」。
今回は、さらに踏み込み、「墓の形」だけではなく、
「死者に対する思い」を風習・文化・習俗という民俗学的な観点から、
「庶民たちがお墓をどう大切にしてきたのか」を紹介します。
偉人の墓「真田信繁(幸村)」(1570-1615)
徳川家康が幕府を開いて既に11年。戦国の時代も終焉を迎えていた1614年。豊臣家が全国から浪人を集めていた。家康に高野山に流されていた真田信繁もまた密かに九度山を抜け出し大坂城に入った。
豊臣秀吉の馬廻り衆だったこと、そして父・昌幸の代から「家康嫌い」でもあったことからであった。
大坂冬の陣のあと、信繁の武勇を聞いた家康から「信濃一国を与える」と寝返りを促す使者が来た。それを聞いた信繁は「日本国の半分をもらえるとしても、気持ちは変わらない」と立腹した。
真田信繁の決断~「家康の首を取る!!」
そして、迎えた翌年の夏の陣。信繁は宿敵家康と再び相まみえることになったが、すでに豊臣方の敗色は濃厚。しかし、信繁の心はすでに決まっていた。
徳川方の士気を削ぎ、そこに活路を見出すためには、「家康の本陣に突撃し、家康を討ち取るのみ」。
信繁は、「起死回生」の大勝負にでる。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に三度にわたり突撃。真田隊の一撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したという。
この信繁の果敢な突撃は、敵味方関係なく、
「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と賞され、「あの世で真っ先に酒を酌み交わしたい男である」と家康が評したといわれている。
庶民の墓 両墓制の墓(年令階梯制)
(奈良市水間)
年齢順かつ男女別に埋葬位置が変わる埋葬墓地がある(年令階梯制墓地)。
村のしきたりや伝統を伝えてくれる存在であった年寄りは「長老衆」として敬われ、年令階梯制の墓地 が存在した。村の年寄りを特別な存在と考え、より上段に葬ることで、死しても彼らを敬うことになり、自分の祖先だけでなく、長老たちを村全体の先祖として敬うことに繋がっていった。