お墓から見たニッポン SEASON 3お墓から見たニッポン SEASON 3

歴史の偉人の墓を訪ね、日本人の死生観はどんな風に変遷してきたのか?庶民たちは死者とお墓にどう向き合ってきたのか? お墓から見えてくる「知られざるニッポン」の姿とは?
坂本 七菜 テレビ大阪アナウンサー TKO 木本 武宏 朽木 量 千葉商科大学教授 カジポン・マルコ・残月
MC GUEST

#1 平安末期「源義経~判官贔屓」

ムラを見守る先祖の墓

「源義経」 ムラを見守る死者の墓

#1 今回の SAESON3のテーマは、
「一撃に賭けた男たち」

「義のため」に無謀とも思える戦いに向かった男たちの存在は、今も我々日本人の心を揺さぶり、愛され続けている。そんな歴史上の人物を当時の庶民たちはどう見ていたのか。その墓の祀り方から紐解いていきます。

また、好評を博している「庶民のお墓」。

今回は、さらに踏み込み、「墓の形」だけではなく、
「死者に対する思い」を風習・文化・習俗という民俗学的な観点から、

「庶民たちがお墓をどう大切にしてきたのか」を紹介します。

偉人の墓「源義経(1159-1189)」

偉人の墓「源義経」(1159-1189)

「平家にあらずんば人でなし」と言われるほまでに平氏一門が栄華を極めた時代。

敵対する源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名 牛若丸。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げると馳せ参じた。

1184年。一度は都落ちした平氏が勢力を回復し、福原(神戸)まで戻ってきていた。源平どちらの世になるのか? この戦(一ノ谷の合戦)が天下分け目の大勝負とみていた源氏の総大将・義経。 しかし、平氏の陣は守りも固く容易に繰り出せる状況ではなかった。

「義経の決断~「鵯越の逆落とし」

ここで平氏を追い詰めなければ再び平氏の世に逆戻りしていしまう。義経は決断した。精鋭70騎を率い鵯越の急峻な崖から逆落としを仕掛け、平氏本陣を奇襲。この一撃「鵯越の逆落とし」をきっかけに義経は、続く・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、時代を動かしたヒーローとなった。しかし、後に兄・頼朝に疎まれ、朝敵とされ奥州平泉で自刃。

その最期は当時の多くの人の涙を誘い、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉や、数多くの伝説、物語が生まれるきっかけになった。

「源義経」の墓所 静の里公園

「源義経」の墓所 静の里公園
(兵庫県淡路市志筑)

義経の墓・供養塔は日本各地に存在するが、この地の墓は、江戸時代から有名だったと伝わる。

鎌倉で義経との子どもを殺されたが命を助けられた妻・静御前は義経の死後、淡路島の志筑辺りに住んで義経の供養をしていたといわれている。

彼女の死後、鎌倉幕府が滅び、南北朝時代になって地元の人々によって夫婦二人の墓として「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)が建てられたと思われる。

庶民の墓 大原の産屋と墓地

庶民の墓 大原の産屋と墓地

死や誕生に関わる事象は、一般的に日常の生活空間から遠ざけられがちであるが、ただ恐れて、遠ざけられているだけでなく、先祖はムラを守る存在であり、墓地は大切にされてきた。

福知山市三和町大原には、ヤマの空間にかつては土葬した墓地、ノラには「産屋」(うぶや)と呼ばれる出産のために別に建てた小屋が残っている。乳幼児死亡率が高かった昔において産屋(出産)は死に関連するものとしてムラの外の空間、ノラに配置された。

一方で、産屋の入口は神社と向かい合い、墓地は神社と対置される形でムラを見守る位置にある。

穢れを遠ざけつつも、“カミや先祖に守られて生きるあり方”を村落の空間構成から探る。

今回のみどころ

考古学者 朽木教授の解説

考古学者 朽木教授の解説

考古学者の朽木教授の歴史的・文化的な面からの解説

中世~「ムラを見守る死者の墓」
日本人の生活基盤である村落は、人々が暮らす領域である「ムラ」、田畑が広がる生産領域である「ノラ」、狩猟採集を行う領域である「ヤマ」と同心円状に分れるといわれる(村落領域論)。

カジポンによる知られざるエピソード

カジポンによる知られざるエピソード

墓マイラーのカジポン(マルコ・残月)による
墓マイラーならではの偉人のお墓の見どころや知られざるエピソードを紹介

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