歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、民俗学・考古学
・脳科学の観点から改めて掘り下げていくと、
当時の日本人たちの想い・感情など
「知られざるニッポン」の姿が見えてきます。
今回のseason8では、
動乱の時代にこそ生き生きと輝いた男たち、
そして動乱に巻き込まれた庶民たちのお墓から
見えてくる当時の想いを感じ取り、
新たなニッポンの歴史を探り出していきます。
「日本三大仏」の一つともいわれる巨大な大仏で有名な能福寺。そこに平清盛の墓が建っている。
1167年清盛は太政大臣にまで昇りつめたが、福原(現在の神戸市)の開拓に専念するため僅か3か月で辞任。
翌1168年、こちらの能福寺で剃髪し出家した。そして1181年に亡くなるが、この能福寺に墓を建てるように遺言を残していた。しかし、平家の都落ちの時に、墓は能福寺とともに消失してしまった。
近くに清盛塚という十三重塔があるが、これは
清盛の死後約100年後、当時の鎌倉幕府の執権・北条貞時が清盛の供養のために建てたという説がある。
地元の人たちにとって、神戸の基礎を造り上げた清盛にはまた違った思いがある。
1980年の清盛800回忌の際、清盛の墓はやはり遺言の場所にある方が良いと考え、能福寺に再建されたのだった。
大阪府富田林市寺内町は、戦国時代に一向宗のもと近隣4村で開発した宗教自治都市で、
江戸時代には近隣の農作物を扱う商人が増え、南河内地方の商業都市として発展した。
商業の町として発展してきただけに、勉学に対しての意識が相当高かったと思われ、幕末にはこの寺内町も含めて56もの寺子屋があり、男女ともに多くの児童・青年が通っていたという記録が残っている。
寺子屋の師匠が亡くなったとき、門下生たちが師匠への感謝の気持ちを表すために建立した墓。
慶応年間~明治5年(1872)、現在の寺内町で久保利吉郎氏(平民)が営んでいた「算術・読書」の寺子屋では合計150名(男100 女50)の門下生がいた。明治9年に亡くなった師匠の死を悼み、かつての門下生たちが建立した筆子塚が富田林市立西山墓地に残っている。「門人中」という門下生を意味する文字や、久保氏の辞世の句も刻まれている。
中でも師匠との「絆」を感じるのが、土台が机で、その上に本を立てたイメージの墓石になっている。門下生たちが持つ「我が師の恩」を形にしたことがよくわかる。
カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。
カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー。
墓マイラー、カジポンさんの独特のお参り方法。墓に直接触れ、感謝を伝えるソウルトーク。
今回は平清盛のお墓に、バラバラになった一族の墓の写真をあてて何かを伝えています。一体なにを!?
お墓の表情をいろいろ見るため、墓マイラーの墓参りはできるだけ違う季節・時間に行く。
四季×朝・昼・夕の12回は見に行くのが理想。