
歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、民俗学・考古学・脳科学の観点から改めて掘り下げていくと、当時の日本人たちの想い・感情など「知られざるニッポン」の姿が見えてきます。
season9では、歴史上の人物たちは、何を信念としていたのか?また庶民たちは、戦乱や大災害の時代にどんな「信念」を持っていたのか?
お墓から見えてくる当時の想いを、考古学・民俗学・脳科学の視点で感じ取り、新たなニッポンの歴史を探り出していきます。
14世紀半ば、尊氏は鎌倉幕府討幕~室町幕府創立にかけての戦没者の霊を慰めるために、全国60余州に一国一寺を建立した。この安国寺もその一つとして創建。尊氏の葬儀は京都市洛北の等持院で行われ、墓も同院に建てられたが、息子の二代将軍義詮が分骨し安国寺にも建立。母の清子、妻の登子に挟まれるようにして尊氏の墓は建っている。
安国寺の参道近くには、尊氏が浸かったと伝わる産湯の井戸や、母・清子が男子出生を祈願した地蔵菩薩が残されており、尊氏の産着や毛髪なども保存されていることから尊氏の京都綾部誕生説も有力。
度々地震や台風などに見舞われてきた日本。その度に当時の庶民たちは災害に立ち向かってきたが、江戸時代、南海トラフ大地震の被害に遭った大坂の庶民たちは、その教訓を石碑に残している。
「安政南海地震」(1854年)で大津波の被害にあった大坂の人々は数々の石碑を建てた。
その動機は、さらに148年前の大津波で多くの犠牲者を出したが、年月が経つとその教訓が忘れ去られ、再び多数の死者が出たことを悔い、後世の人々が、津波や地震の時に同様の被害を出さないようにとの願いからだった。
天保5年(1834) 、江戸時代最後の新田開発請負人・常吉庄左衛門が苦労の末、現在の此花区の淀川河口付近を新田開発した。「常吉新田」と呼ばれ農民が多数移住してきた。しかし、その20年後、1854年12月24日、安政南海地震(今の南海トラフ大地震)が起こり、2~3mもの津波が大坂の町を襲い、約2千人もの命を奪った。「常吉新田」も河口のためほとんどが津波に流され、4年後、常吉は失意のうちに亡くなった。
震災後のムーブメントを知った常吉の孫・常吉清治郎が、祖父の悔しさと震災の教訓を後世に伝えるため、祖父の没後50回忌の明治40年(1907)に墓を建立した。墓には「海嘯溺死者各位之霊」と記されており、安政元年(1854年)の津波による犠牲者たちを祀っている。
カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。
カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー
墓マイラー・カジポンさんの独特のお参り方法で、墓石に直接触れ感謝の気持ちを伝えている。
歴史ファンの中野信子先生も、特にその行動原理が聞きたいとソウルトークに挑戦!?どんな答えが!?
次回1/21(火)午後2時35分…
天下の大泥棒「石川五右衛門」の墓の秘密に迫ります‼