お墓から見たニッポンseason8 動乱の時代を生きた証

season8 動乱の時代を生きた証

歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、民俗学・考古学
・脳科学の観点から改めて掘り下げていくと、
当時の日本人たちの想い・感情など
「知られざるニッポン」の姿が見えてきます。

今回のseason8では、
動乱の時代にこそ生き生きと輝いた男たち、
そして動乱に巻き込まれた庶民たちのお墓から
見えてくる当時の想いを感じ取り、
新たなニッポンの歴史を探り出していきます。

動乱の時代に生きた偉人たち
安戦国時代末期、剣の道を志すひとりの少年がいた。名は宮本武蔵.幼いころから養父の元で厳しい修行を積んだ武蔵は、わずか13歳で初めての決闘に挑む。勝ったその瞬間、彼の心に剣への情熱が燃え上がった。「剣こそが我が道」と悟った武蔵。当時の武士たちが安定を求め、幕府や藩に仕官する道を選ぶ中、剣のみで生きる道を選んだ。他流派の剣士たちと戦いを重ねる姿は、まるで野生の獣のように荒々しく、そして美しかった。
  • 宮本武蔵一族の墓(岡山県美作市宮本)

    「武蔵神社」の石段を登ると、拝殿が見えてくる。その奥に武蔵一族の墓が広がっている。武蔵の墓は、養父の平田無二斎と母の墓の隣に並んで建てられている。

  • 武蔵の墓は自然石

    生涯60数度の勝負に全て勝利した剣豪・武蔵に相応しい自然石の墓。
    養父で無二斎の生誕地で、武蔵の「五輪書」にもこの近辺の播州平福で13歳のとき、最初の決闘をしたとあり、少年時代を過ごした地に武蔵の墓は建てられている。

  • 誰が建てたのか?

    養子・宮本伊織(1678年没)が、ほぼ故郷に帰ることが無かった武蔵を「両親の元に返してあげよう」と尽力し、熊本弓削の“東の武蔵塚”から分骨されたとする説がある。

  • 動乱の時代の庶民も生きた証を!?

    「いつ巻き込まれて死ぬかもしれない」という時、庶民たちは石仏や墓にどんな思いを込めたのだろうか?

  • 明智光秀の丹波攻略戦

    大阪府豊能町には、「多尊石仏」が多く残っている。戦国時代、明智光秀が織田信長の命で丹波攻略を仕掛けていた頃、庶民たちによって建てられた「多尊石仏」だ。

  • 象徴的な「北の谷多尊石仏」

    高さ110㎝、幅130cm程の自然石の板状岩に22体の石仏と三基の五輪塔が彫られている。4段の最上段には定印阿弥陀座像、右に観音菩薩、 左に地蔵菩薩が配置されている。脇侍の右隣に2体、下三段に17体と計19体の同じ様な円頭合掌像が並んでいるが、これは地蔵を表しているものと考えられる。

  • 戦国時代の庶民たちの「絆」

    みんなでお金を出し合った逆修仏(生きている内に死後を供養する)で、
    総員22人の造立主という非常に珍しいものだと朽木教授は言う。
    さらに珍しいことに、3つ彫られている五輪塔は出来上がる前に亡くなった3人で、亡くなった仲間も見捨てる事なく、石仏の中に入れている。村の仲間の“強い絆”が感じとれる。動乱期になると家族や親族だけでなく、地域の仲間たちとの「絆」を意識している事がよくわかる。

  • 庶民の期待の星だった“信長”

    石仏には天正八年(1580)の文字が彫られているが、この年を境に多尊石仏は建てられなくなった。
    その前年の天正七年、光秀の丹波平定が終わり、織田信長による天下統一が見えてきた時期でもある。当時の庶民たちも来世ではなく、現世に希望を感じ始めたのではないだろうか。

墓マイラーの豆知識

  • 【墓マイラー】

    カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。
    カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー。

  • 【ソウルトーク】

    墓マイラー、カジポンさんの独特のお参り方法。
    墓に直接触れ、感謝を伝えるソウルトーク。
    今回は宮本武蔵のお墓に、塚原卜伝、上泉信綱、
    柳生十兵衛、沖田総司、岡田以蔵、千葉周作など
    総勢6名の名だたる剣豪の写真をあてて何かを伝えています。一体なにを!?

  • 【墓参りの時間帯】

    お墓の表情をいろいろ見るため、墓マイラーの墓参りはできるだけ違う季節・時間に行く。
    四季×朝・昼・夕の12回は見に行くのが理想。

次回8/20(火)ひる2時35分…

孤高の剣豪「宮本武蔵」の墓の秘密に迫ります‼