
歴史上の偉人たちや庶民のお墓を、民俗学・考古学・脳科学の観点から改めて掘り下げていくと、当時の日本人たちの想い・感情など「知られざるニッポン」の姿が見えてきます。
season9では、歴史上の人物たちは、何を信念としていたのか?また庶民たちは、戦乱や大災害の時代にどんな「信念」を持っていたのか?
お墓から見えてくる当時の想いを、考古学・民俗学・脳科学の視点で感じ取り、新たなニッポンの歴史を探り出していきます。
1594年8月23日、京都三条河原での処刑は他に例がない見せしめの“釜茹での刑”。彼は自分が絶命するまで、釜の中で我が子を両手で抱え上げていたという。処刑前、市中を引き回された五右衛門が大雲院の前を通りかかった時、貞安上人が「必ず墓を建てて供養する」と約束したという。
この大雲院こそが、時の正親町天皇が本能寺の変で斃れた織田信長・信忠親子のために建てた寺だった。信長親子の大きな墓の近くに建つ五右衛門の墓と秀吉に吐いたあの言葉。その2つは本当に偶然なのだろうか?このお墓の前に立つと、そうは思えない気がしてくる。信長親子に見守られるように建つ五右衛門の墓。そこには何かの意味があるのでは?
戦国時代末期、織田信長の天下統一が近づき、戦乱はさらに激しさを増していた時代、生駒地方では、「十三仏信仰」が流行する。生前に自分で墓を建て33回忌までを自ら供養したのだ。
「石福寺」(奈良県生駒市)には、「十三仏板碑」という庶民の墓がある。「天正2年」(1574)と刻まれ建てた人の名前が10人刻まれている。
2つ板碑の隣には、慶長五年(1600)、まさに関ヶ原の戦いの直後に建てられた「十三仏板碑」も並んでいる。最初の「十三仏板碑」から26年後。村内では代替わりしていて、親の代に建てたものを自分たちもという思いで建てたのだろう。しかし、このように繰り返し建てられていた生前墓も、江戸時代に入るとピタリと終わる。「いつ死ぬかもしれない」と感じていた戦国時代が終わりを告げ、庶民たちは「死」よりも今を生きること目を向けるようになったのかもしれない。
カジポン・マルコ・残月さんのように、歴史上の偉人の墓を巡り、故人に想いを馳せる人。
カジポンさんは37年間で101カ国、2520人もの偉人のお墓を訪ねた筋金入りの墓マイラー
墓マイラー・カジポンさんの独特のお参り方法で、墓石に直接触れ感謝の気持ちを伝えている。
歴史ファンの中野信子先生も、特にその行動原理が聞きたいとソウルトークに挑戦!?どんな答えが!?
次回1/28(火)午後2時35分…
なぜ切腹させられた?「千利休」の墓の秘密に迫ります‼