#2 戦国時代
「なにを望んでいたのか 明智光秀」
切っても切れない先祖との繋がり。日本人はお墓と共に生きてきました。
お墓参りとは、先祖や亡き大切な人たち、そして自分を取り巻く全てのものに感謝することではないでしょうか?
この番組では3回に渡り、歴史の偉人たちのお墓を訪ね、お墓の歴史を通して忘れたくない日本の心を再発見していきます。
それでは、『お墓から見たニッポン SEASON 2』スタート!
今回は、「非業の死を遂げた悲劇の男たち」がテーマ。
お墓を訪ねる偉人は、今話題の『明智光秀』。
日本人の“敗者” に対する意識・こころの在り方を、その墓の祀り方から紐解いていきます。
「なにを望んでいたのか 明智光秀」
戦国時代の武将(1528-1582)
織田信長に仕え重用されていたが、突然、謀反を決意。
本能寺の信長を討つ。しかし、頼りにしていた細川藤孝・忠興親子、筒井順慶・高山右近、中川清秀などに見捨てられ、ライバル秀吉との一騎打ちの山崎の合戦に敗れ、逃走途中に歿する。
「なぜ本能寺の変を起こしたのか⁉」
日本史上最大のミステリーともいわれている本能寺の変。
光秀は最愛の妻・煕子以外に側室を持たず、煕子は光秀の良き相談相手だったといわれている。
しかし、本能寺の変の6年前に煕子を亡くし、光秀には他に相談相手がいなかったため、発作的に謀反を起こしたという説もある。
光秀は、本能寺の変で、いったいなにを望んだのだろうか?
「光秀の墓のそばには最愛の…」
光秀の墓は、一族の墓とともに滋賀県大津市の坂本にある西教寺に。
西教寺は、信長と対立した天台眞盛宗の寺院。
信長の比叡山焼き討ちによって焼失。
その後、坂本城主となった光秀の手によって、
復興されたことから光秀の菩提寺となった。
そして光秀のすぐそばには、光秀が建てたという最愛の妻・煕子の墓が。
謀反を起こし反逆者のイメージがある光秀だが、妻を愛し、領民に善政を敷き、西教寺の復興にも尽力していた。
死後も、地元の人たちが守り続けてきた光秀の墓。
そこにはいったいどんな想いがあったのだろうか…。
室町~戦国時代
墓地は村人たちの結びつきの象徴に
畿内周辺には、農民たちの自治的村落「惣村」が出現。
惣村では「一致団結」がなにより重視され、水郷(農業用水の共同利用)・宮郷(氏神社の共同祭祀)と同様に、墓も共同利用されるようになった。
近畿では、「惣墓・郷墓」と呼ばれる広大な共同墓地が有名で、15世紀頃には成立していた「中山念仏寺墓地」(奈良県天理市)も、中世の惣村に由来し、共同墓地「墓郷」という形で、惣村における“人と人のつながり・結びつき”を今に伝えている。