#1 南北朝時代
「河内のアウトロー 楠木正成」
切っても切れない先祖との繋がり。日本人はお墓と共に生きてきました。
お墓参りとは、先祖や亡き大切な人たち、そして自分を取り巻く全てのものに感謝することではないでしょうか?
この番組では3回に渡り、歴史の偉人たちのお墓を訪ね、お墓の歴史を通して忘れたくない日本の心を再発見していきます。
それでは、『お墓から見たニッポン SEASON 2』スタート!
今回は、「非業の死を遂げた悲劇の男たち」がテーマ。
お墓を訪ねる偉人は、『楠木正成』。
日本人の“敗者” に対する意識・こころの在り方を、その墓の祀り方から紐解いていきます。
『河内のアウトロー 楠木正成』
鎌倉時代、1294年に現在の大阪府千早赤阪村生まれ。
豪族の出身説、鎌倉幕府の御家人説、独自の商業圏を作り上げた一族の棟梁で、どの権威にも従わない為、悪党と呼ばれていたという説など出自については様々な説があるが、鎌倉幕府の横暴に立ち上がった後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府打倒に動く。
天皇は隠岐島に配流となるが、その後も幕府に臆さず戦い続けた楠木正成の目覚ましい戦いぶりは、諸国の武士たちを勇気づけ、足利尊氏や新田義貞の手により倒幕が果たされた。しかし、京都に戻った後醍醐天皇により天皇中心の政治が始まった時、恩賞などに不満を持つ武士たちの棟梁、足利尊氏が謀反を起こし挙兵。
天皇に尊氏との和解を進言するが、逆に尊氏を成敗せよと命じられた正成は、700の兵で10万の尊氏軍と兵庫・湊川で激突する。
「楠木正成」の墓を建てたのは水戸黄門さん
湊川神社にある楠木正成の墓は、江戸時代に水戸黄門こと徳川光圀によって建てられた。
室町幕府を起こした尊氏に敗れたのち、 正成は反逆者として扱われ、その存在はタブーとなっていた。
しかし正成の墓は、地元の人によって密かに守り続けられ、約250年後、豊臣秀吉の太閤検地の時、田んぼの中から発見された。
江戸時代に入り、1692年、徳川光圀によって天皇に対する正成の忠誠を称え「嗚呼忠臣楠子之墓」の八文字を刻んだ墓が湊川神社に建立された。
時の権力者に否定された楠木正成の墓を作り、守り続けてきた庶民たち。
いったいどんな想いだったのだろうか…。
鎌倉~南北朝時代に大きく変わった庶民の墓
奈良市にある中ノ川墓地。ほの暗い木立の中に近現代の墓標に交じって中世に遡るような古い石塔や石仏が多く残されている。
仏教が庶民に広まる鎌倉時代以前は、日本古来からの“死ねば自然に帰る”という考え方が根底にあり、遺骸を野ざらしにして風化させるという手法が一般的だった。しかし、鎌倉時代に入り、それまでの戒律や学問、寄進によって救いを求めるのではなく、信仰によって一般庶民を救おうという、鎌倉新仏教とも呼ばれる新宗派が起こる。
そこで出てきたのが「五輪塔」だった。
五輪塔は、誰が死んだかを表す意味はなく
「仏塔を建てることで死者を供養する」という一種の供養塔だった。当時は塔を建てるという行為が「功徳を積むこと」になるという考え方があり、死者の供養になると考えられていた。