やっぱRimpa!

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Rimpa(琳派)プロフィール

江戸時代前半、京都で活躍した俵屋宗達に始まり、尾形光琳が大成させた「琳派」。“琳”には“美しい玉”という意味があるが、その名の通り、きらびやかな金銀を多用した装飾性、さらに、これまでの日本絵画には見られなかった斬新なデザインが特徴だ。明治以降には、ジャポニズムの美として海外で熱狂的に迎えられ、アールヌーボーの作家やグスタフ・クリムトら大画家たちが競ってその様式を取り入れた。影響はグラフィック、インテリアデザインなどに及び、「琳派=Rimpa」は世界のアートシーンを変える一大ムーブメントとなった。代表作は「風神雷神図屏風」(宗達・重要文化財=建仁寺)「蓮池水禽図」(宗達・国宝=京都国立博物館)、「紅白梅図屏風」(光琳・国宝=MOA美術館)など。

モテるオヤジはTAWARAYA!

琳派を生んだパイオニアといえば、江戸時代初期の京都の絵師・俵屋宗達。当代きってのマルチアーティスト・本阿弥光悦とコラボ作品を手がけたり、皇室から絵を注文されたりとかなりの売れっ子だったようだ。しかし、その人生は謎だらけ。なにしろ、生没年からして不明なのだが、扇絵や装飾紙を販売する絵画工房『俵屋』を京都に開いていたらしい、というプロフィールは定説になっている。『俵屋』は一流ブランドだったらしく、当時の本にこんな記述がある。とある寺の僧侶は、女とみれば参詣客も口説くエロオヤジ。モテたいがため、全身をブランド物で固める彼は、扇にしても“かの有名な『俵屋』”であつらえていた、というのだ。男性ファッション誌も食いつきそうな“ちょいモテ”アイテムから国宝級の名画まで、何でもござれの仕事ぶり。そんな“デキる”宗達こそ、京女たちを虜にするモテ男だったのかも!?

ブルジョア育ちの借金王子

琳派最大のスター・尾形光琳は、1658年、京都のリッチな呉服商の二男として生まれ、幼いころから能楽、絵画、茶道などに非凡な才能を発揮していた。ブルジョアの粋なボンボン。金はある、しかもイケてる俺。やがて立派な遊び人となるのも当然のなりゆきだ。しかし、後に家業の経営が危うくなっても、財産を食い潰して遊興三昧。さすがにヤバイと金貸し業を始めるが、債権を踏み倒され、自分が大借金を背負って破れかぶれ。そうして食い詰めた30代後半、ようやく得意の絵で生計を立てる道を選ぶのである。だが、人生は結果オーライ。40代で大画家となり、勝ち組に返り咲いたんならいいんじゃない?と思うアナタは甘い。金を手にした光琳はやっぱり浪費生活に突入。またも借金を重ね、45歳で家を抵当に入れるハメになる。生まれ育ち、センス共に恵まれたうらやましい彼にも、“経済観念ゼロ”という恐ろしい弱点があった!

ダ・ヴィンチ・コード? NO! 風神雷神コード!!

「そっくりじゃん!」。昨年、並んで公開された3作の『風神雷神図屏風』を見比べた人は、まずこうツッコミを入れたろう。3つはそれぞれ、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一という琳派3大画家の作品だが、神様のドヒャーというポーズといい、配色といい構図といい、“コピー”と呼びたいほど同じ絵である。でも、活躍した時代がおよそ100年ずつ離れている3人。いかにして『風神雷神』はコピーされ、琳派が伝承されたのか? 研究者によれば、いきさつはこうだ。江戸初期に描かれた宗達作『風神雷神』は世間に知られることなく、京都の寺に眠っていた。これを80年ほど後に光琳が偶然発見し、カッコよさにシビれて模写する。時代は流れて幕末期、光琳作は将軍ゆかりの一橋徳川家へ。たまたま隣に住んでいた譜代大名家の息子・抱一は“光琳オタ”で、ラッキーなことに光琳作の裏に別の屏風絵を描く大仕事を得る。そうして傑作『夏秋草図屏風』を裏に描き上げた彼。やはりシンボーたまらず、あこがれの光琳作もコピってみた…。絵画史のナゾ解きはヘタなミステリーよりおもしろい!

遺産は“オレのスキャンダル”

まさに“身から出た錆”の借金地獄(『ブルジョア育ちの借金王子』参照)に加え、尾形光琳に生涯つきまとったのが女性問題。光琳はとにかく女好き。そして遊女や町娘と遊びまくった結果、32歳で武家の娘に子どもを生ませ、養育費を払わず訴えられる。39歳で結婚するもさっそく家の下女に手を出し、またベイビー誕生。そんなこんなで、56歳でお妾さんに出来た息子を打ち止めに、妻以外の6人の女性に7人の子を生ませたらしい。この“華麗なる女性遍歴”が今に詳しく伝わっているワケは、光琳自身が自分に関する文書をキッチリまとめて子孫の家に託したから。借金の証文、女性に訴えられたときの示談書の写し、遊郭の支払証、恋文など「なにもこんなものまで!?」な物件も律儀に遺していたというから驚きだ。後世の恥になりかねない文書を、なぜ子孫の代まで伝えようとしたのか? 光琳に会って一度聞いてみたい!

今、ANIME 昔、GEISHA GIRLS

今、フランスではMANGAやANIMEなど日本のオタク文化が大ブーム。フランス人ギャルがアニメキャラの扮装でコスプレイベントに集い、「Kawaii(カワイイ)!」と盛り上がっているとか。この現象は一部で「ジャポニズムの再来」と言われている。ジャポニズムとは、19世紀後半にヨーロッパを席巻した日本ブームのこと。きっかけは、日本が初めて正式参加した1867年のパリ万国博覧会だ。出品された“琳派”“浮世絵”などの日本美術は注目を集め、西洋のアート界を変える一大ムーブメントとなっていったのだ。さて、パリ万博で注目されたのは美術だけではない。3人の江戸柳橋芸者が日本パビリオンで披露した“キセルで煙草を吸う”“手まりをつく”などのパフォーマンスも注目の的だったらしい。煙草をふかす芸者ガールを、固唾をのんで見守るフランス人御一行。これ、想像するとかなり妙な光景ではある。