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「京都1200年の謎 空海祈りの道 〜 東寺  中国  高野山  5000km 〜」
◎プロローグ
 1200年あまり前、「平安楽土」を願い新しい都となった「平安京」。しかし、平安とは名ばかりで、洪水、旱魃、落雷、火災、地震、疫病の流行、飢餓が立て続けに起こる、呪われた都だった。人々は、それらを怨霊の仕業と信じていたが、最もその存在に悩まされ恐れた人物は、平安京を造った桓武天皇である。

◎あらゆる災いを鎮めるために建てられた「東寺」。
 桓武天皇は、唐の都・長安にならって碁盤の目のように区切り、天皇が政治を司る「大内裏」を中心に平安京を造営した。怨霊に悩まされる桓武天皇は、都を置く場所としてこの京の地が理想的だと考えていたのである。また、「四神相応」という中国の思想に基づき、平安京を取り囲む各方位に4つの想像上の動物、玄武、青龍、朱雀、白虎を守り神として配置する造りとし、仏法によって国家の災いを鎮めるため、表玄関の羅生門の両脇に「東寺」と「西寺」を建てた。西寺は衰退したのに、なぜ東寺だけが残ったのか。後に天皇から鎮護国家を託された空海が、真言宗総本山として東寺を造り上げていったのである。

◎豪族出身のエリートから、僧侶へ転身した空海。
 空海が生まれたのは、現在の香川県である讃岐国。豪族の子として生まれた彼は、神童として両親の期待を一身に背負いながら、15歳の時に官吏の道を目指して京へ上がり、18歳で大学へ入った。ところが突然、官吏へのエリートコースの道を捨て、放浪僧となった。きっかけは、名もない一人の僧侶と出会い、「虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えれば、あらゆる経典を暗記し、理解することができる」という行を教えられたこと。空海は、この経典に自分の道があると、山林を歩いては険しい崖を登るという荒行に挑んだ。100万回の真言を唱えた時、明星の光が空海の口に飛び込むという霊験の後、彼は正式に出家した。

◎密教との出会いを経て、遣唐使船で中国・長安へ。
 仏教は、出家したものだけが救われる「小乗仏教」から始まり、出家や在家を問わず救われる「大乗仏教」となった。多くの人々に支持された大乗仏教は、インドの様々な大自然に宿る神々と結びついた。それを取り入れて体系化したものが密教である。密教の中心仏「大日如来」は、すべての神々を従える無限の存在。仏の道を極めるために7年間猛烈な勢いで経典を読み漁るうち、密教の根本経典を見つけた空海。当時密教の奥義を知る僧はなく、仏教の本流から取り残されていた。その奥義を知ることが、空海にとって仏を悟ることであり、それを通じて人々を救うことができると確信した。彼は唐に渡ることを決意し、26年ぶりに派遣される遣唐使船に留学僧として乗り合わせることになった。中国に到着してから約7ヵ月後、空海はついに長安に足を踏み入れた。

◎わずか3ヶ月で密教の奥義を体得し、帰国の途へ。
 当時の長安は、人口100万人を抱える世界最大の国際都市。城壁の西門はシルクロードへ続き、多くの文明がこの門から入ってきた。仏教をはじめ様々な宗教が混在し、多種多様な民族が集まっていた。遣唐使の一行は2ヶ月もしないうちに帰国の途についたが、空海は残留して、インド僧般若三蔵の下でサンスクリット教を勉強した。そんな中、中国密教の第一人者である恵果と出会う。空海を前にした恵果は、大日如来の教えを授けることを決意し、10年はかかると言われる経典の体得をわずか3ヶ月で実現させた。曼荼羅の仏と仏縁を結ぶ密教の儀式「結縁灌頂」により、空海は「遍照金剛」という名とともに、仏舎利、曼荼羅などを与えられた。当時病を患っていた恵果は、中国での密教の行く末を危惧していたことから、日本に伝えることでその遺伝子を残そうとしたのだった。すべての経典を伝授して恵果は息を引き取り、空海は20年の留学義務を切り上げ帰国した。

◎修行者の道場として、密教の聖地「高野山」を開創。
 桓武天皇の死後、嵯峨天皇の時代になり、空海は密教の第一人者として都へ戻った。そこへ朝廷を揺るがす「薬子の乱」が起き、東寺境内にある「鎮守八幡宮」で戦勝祈願を行い反乱は治まった。彼は、国や天皇、庶民の安寧を願うことで信仰の渦をつくり上げ、一躍歴史の表舞台に踊り出たのである。以降、嵯峨天皇と交流を深める中で、国家鎮護を願い、修行者のための道場を造りたいと申し出た。それが、和歌山県の標高1000m前後の峰に囲まれた高野山である。大宇宙、大自然と感応しあう高野山は、生きたまま仏になる「即身成仏」の寺。空海は、偉大な信仰の道場を造り上げたのだった。

◎密教の世界を再現した東寺が、長い時間をかけて完成。
 平安遷都の2年後に都の南に創建された東寺は、完成するまでに90年あまりの年月がかかった。空海が帰国してから17年後の50歳の時に、嵯峨天皇の厚い信望により東寺が下賜された。しかし、東寺は創建から30年が過ぎたにもかかわらず、金堂しか完成していなかった。空海は、東寺を密教伽藍にし、弟子に伝法する道場にした。金剛界、胎蔵界、両界が融合した立体曼荼羅は、彼の発想でつくられたものであり、五大明王などの仏たちによって国家を守ろうとしたのだった。また、東寺の建設と並行して、東隣に身分をこえて誰もが入学できる「綜芸種智院」も創立し、幅広い教育の大切さを教えた。

◎エピローグ
 835年、「56億7000万年後、弥勒菩薩とともに人々を救済するため、この世に現れる」と言い残し、空海は62歳でこの世を去った。86年後、時の醍醐天皇から「弘法大師」という名を授かった。平安京がなければ、空海は歴史の舞台に登場しなかっただろうし、空海が登場しなければ、京都の歴史は大きく変わっていただろう。毎月21日は、空海の命日として法要が行われている。12月21日「終い弘法」の日、弘法大師を慕って多くの人々が東寺に集まり、行く年に感謝し、来る年に願いをこめて祈りを捧げる。はるかなる時空を越え、今も空海は生きている。










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