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番組内容 ニュース スポット映像 もうひとつの歴史
「ニッポンを変えた四畳半!金閣・銀閣の謎」
◎プロローグ
 茶の世界、禅の心など、日本人独特の美意識は、一体いつ、どこから生まれたのか。教科書にも載っていない、観光旅行でも知り得ない、「もうひとつの歴史」を巡る旅が始まる。数千年の歴史が眠る京都に、燦然と光り輝く鹿苑寺金閣。また、それとは対照的に佇む慈照寺銀閣。この金と銀をめぐる物語の中に隠されている日本人の美意識やルーツは、意外にも古代中国が関係していた。

◎贅を尽くし、栄華を極めた、3代将軍足利義満。
 京都を代表する煌びやかな建築物、金閣。1398年、室町幕府3代将軍足利義満によって建てられた彼の別荘である。将軍職を退いた後も、時の天皇の権威を凌ぐほどの力を持っていたと言われている義満が、政治、経済、外交などを司る場所でもあった。それまでの日本的なものや、平安時代の「貴族文化」、鎌倉時代の「武家文化」を採用しながら中国様式もミックスさせた、金閣。この建物に表現された義満の野望とは、一体何だったのか。

◎高品質な刀を輸出して、巨額の外貨を獲得。
 義満が明との間で行った日明貿易。中でも一番の輸出品は日本刀で、切れ味が中国の刀より良いことが好まれた。当時輸出された日本刀は、数10万本にのぼると言われている。その頃の中国が日本刀を重宝した理由は、3日3晩の作業を続けて生まれる炭素の量が少ない極上の鋼「玉鋼」にあった。明王朝を驚嘆させた鋼を使って作られた刀で、義満は巨額の外貨「明銭」を獲得する。なぜ彼は、日本独自の貨幣を作り出そうとしなかったのか。

◎世界が認める国王としての地位を夢に見て。
 唐の時代のシルクロードに加え、明の時代には海のシルクロードが整備された。エリアは西アジア、東南アジアからアフリカまで広がり、中国の貨幣は国際通貨として流通していた。この頃の中国は国際金融マーケットの中心。義満は、自国の通貨を作らなくても、その流通貨幣を採用することで国際社会の仲間入りを果たし、経済大国ニッポンを作ろうとした。また、明から「日本国王」という称号も手に入れた。一将軍に留まらず、世界が認める国王としての地位を確立しようとしたが、野望を胸に秘めたままこの世を去った。

◎学問、芸術、宗教に傾倒した、8代将軍足利義政。
 義満の死後、およそ60年後に勃発した応仁の乱。義満の孫にあたる8代将軍義政が、この乱を引き起こしたと言われている。父や兄を相次いで失い、わずか8歳で将軍職を継承した義政にとって、実権の弱まった将軍とは虚しさ以外の何ものでもなかった。10年続いた応仁の乱の間、義政は戦火に背を向け、ひたすら芸術や美的世界を追い求め、銀閣を作り上げていく。幕府が衰退の一途を辿る中、彼は一体何を感じていたのか。

◎義政の美学の結晶である、銀閣東求堂の四畳半。
 慈照寺銀閣。500年以上も前に建立された国宝。金閣が持つ絢爛さはなく、静謐さにこだわった佇まいの理由は、中国からもたらされた禅宗にあった。中国様式が採用された金閣とは異なり、禅という思想がここには息づいている。以前から中国では、金は尊厳や富の象徴でその代表として太陽があげられ、銀は静や悟りの象徴でその代表として月があげられる。金閣が権力の象徴なら、銀閣は心の象徴。応仁の乱を起こしたことで非難を浴びた義政は、その後将軍職を退き、自分の求める世界を銀閣で築く。彼が最も愛したと言われる東求堂の四畳半。生涯かけて追究した美の形は、日本最古とも言われるこの空間だった。

◎苦肉の策で採用された技術が、和風建築の原点に。
 金閣から銀閣までの約60年間は、バブルの発生から絶頂、崩壊へと移り変わった現代の姿にも似ている。中国との貿易で莫大な財を獲得した義満は、京の建物を次々と建て替える巨大事業に着手し、国中から良質な材木を集めて贅沢に使った。このツケは義政の時代に巡り、柱にする木はおろか、それを買い求める財政も破綻状態。そこで彼は、銀閣造営に向けて新しい発想を生んだ。1本の丸太を縦に切ることで複数の板を作る、現在では当たり前となっている製材技術だった。贅沢を排し、禅の心を取り入れた空間。それが禅と義政の感性の融合であり、和風建築の原点となったのである。

◎人はみな平等という精神が、文化を広める契機に。
 東求堂の四畳半の外側に掲げられた、「同仁斎」の文字。「聖人は一視して同人なり」、つまり「同じ人間に差別はない」という意味である。時の権力者がこう言ったのは革新的であるが、庶民に浸透するには困難だった。そこで義政は、大胆な人材登用を実行。「同朋衆」または「阿弥衆」と呼ばれる人々を起用し、文化や芸術に優れた才能を持ち合わせる彼らを、自由に銀閣へ出入りできるようにした。彼らは、芸術品の鑑定や庭造りなど、義政の美意識や好奇心を助ける指南役を務めながら、庶民に多くの文化を浸透させる役割を果たしたと考えられている。この頃から、味噌や醤油が食卓に並び、猪や豚などの肉食が盛んになり、1日2回だった食事が3回になった。貴族だけが楽しんでいた雛祭りや七夕などが一般化し、織物や装飾の文化も発展した。そしてこの四畳半で、義政は茶の湯を点てていたと言われている。

◎エピローグ
 身分わけへだてなく人を採用する精神が四畳半を生み、その美的感性が現代につながったが、義政は銀閣全体の完成を待たずしてこの世を去った。死期迫る時でさえ、彼はここで毎晩のように禅を組み、月夜を眺めていたと言われている。「くやしくぞ 過ぎし浮き世を今日ぞ思ふ 心くまなく月をながめ」。期せずして、日本文化の原点を生み出した一人の男の生涯。それは、知られざるもうひとつの日本の歴史でもあった。






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