今回は「時代を彩った女たち」がテーマ。
教科書でしか知らない歴史上の彼女たちがその時代を
どう生きてきたのか?お墓を訪ね、彼女たちの真実を紐解いていく。
後半は人間だけが持つ特性「孝養~親への思い」がテーマ。
平安~江戸時代の庶民の墓を目の前にすると、当時の人々の「亡くなった肉親への思い」が現代を生きる私たちと何一つ変わらず、その気持ちが痛いほど胸に迫ってくる。
庶民たちは肉親のお墓とどう向き合ってきたのか?
考古学・民俗学・脳科学の視点からお墓を見てみると
知られざるニッポン」の姿が…。
父・平清盛が名実ともに武家の頂点に立ち、「平家にあらずんば人にあらず」と世間にいわしめるほどの権力を握った頃、平徳子はこの世に生を受けた。
17歳の徳子は、後白河上皇の息子で5歳年下の高倉天皇に嫁ぎ、後の安徳天皇を授かる。
治承5年(1181)、高倉上皇が21歳で崩御。後白河法皇の院政復活で、力を失いかけた父・清盛は後白河法皇の中宮として、夫を亡くしたばかりの徳子を送り込もうとした。義父に嫁ぐという荒業でしたが、徳子は拒絶。
打つ手が無くなった清盛は熱病に倒れ死去。
後白河法皇は各地の源氏勢力に勅許を乱発し、打倒平家を画策。平家は官軍から賊軍に転落した。
追い詰められた平家は元歴2年(1185)、壇ノ浦の戦いで滅亡した。この時、徳子はまだ6歳の息子・安徳天皇が母の時子に抱かれて入水するのを見届け、海に飛び込んだが源氏軍に髪の毛を掴まれ引き上げられた。この時、徳子は30歳。平家一門でたった一人生き残り、京都・大原の地で安徳天皇と平家一族の菩提を弔って余生を過ごしたといわれている。
姫路など播磨地方では、古墳から出土した石棺の蓋に仏像やその仏を表す梵字を刻み石仏を作る風習があった。
この「北原の石棺仏」には貞治二年(1363)、「正阿」という男が母親の三十三回忌に奉納したと刻まれている。当時の推定平均寿命は20~30歳。そう考えると、幼い頃に亡くした母なのか、正阿本人が長生きだったのか?
いずれにしても、この当時では珍しい三十三回忌の法要を無事にやり遂げた正阿の喜びがひしひしと伝わり、660年前のことが、まるで現代のことのように正阿と母のお墓のストーリーに想像が膨らむ。