今回は「時代を彩った女たち」がテーマ。
教科書でしか知らない歴史上の彼女たちがその時代を
どう生きてきたのか?お墓を訪ね、彼女たちの真実を紐解いていく。
後半は人間だけが持つ特性「孝養~親への思い」がテーマ。
平安~江戸時代の庶民の墓を目の前にすると、当時の人々の「亡くなった肉親への思い」が現代を生きる私たちと何一つ変わらず、その気持ちが痛いほど胸に迫ってくる。
庶民たちは肉親のお墓とどう向き合ってきたのか?
考古学・民俗学・脳科学の視点からお墓を見てみると
知られざるニッポン」の姿が…。
父・藤原為時の影響から幼少の頃より漢文を読みこなすなど才女といわれていた。
親子ほど年の離れた藤原宣孝に嫁ぎ一女をもうけたが、結婚3年で夫・宣孝が亡くなり、
その頃「源氏物語」を書き始めたといわれている。その評判を聞いた藤原道長に召し出され、
道長の娘で一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えることに。
彼女の宮中での思いを描いた「紫式部日記」には、清少納言に対しての批判は度を超え、
辛辣な悪口をひたすら書き綴り、嫉妬心が滲み出ている。
室町時代初期にファンがこの場所に移したという記録が残っているが、その訳とは!?
隣に眠るのは小野篁で地獄の閻魔大王の元で 裁判の補佐をしていたという伝説を持つ。
強気で負けず嫌いだった紫式部も辞世の句では
「死んでいく者が書いたものを、誰が生きながらえて読んでくれるだろう。
消えることがない形見ではあるけれど」という一抹の寂しさを語っている。
そんな心配をよそに、「源氏物語」は千年もの間人々を魅了してきた。
やぱり紫式部は日本だけでなく世界を代表する「エンターティナー」なのではないだろうか。
大きな「阿弥陀三尊」がに建っている。
石には「祐盛」が永仁六年(1298)建てたと刻まれている。そしてその前には笠塔婆が2つ建てられている。ひとつは「道仏」が永仁七年(1299)父・祐盛の一周忌のため建てたとあり、もうひとつには母の往生のため息子「道仏」が同じく永仁七年(1299)に建てたと刻まれている。このことから、道仏という人が2年連続で両親を亡くしたことがわかる。3体の石仏とその前に笠塔婆という配置はあるものをイメージしていると朽木教授から解説があり、道仏と両親のお墓のストーリーに想像が膨らむ。