‘先祖を供養する’
日本人には脈々と受け継がれてきた言葉だが、21世紀の今、それが急速に失なわれつつある。
「なにか分からないことに対する不安」「生きていくことへの漠然とした恐怖」を感じる人たちが急増している日本の現実と、
“先祖を供養する”ことが失われていく現状が重なる。
お墓詣りは「先祖に感謝」し、「これからも私たちを守ってください」という未来につながる祈りの場。
そして、なぜか心が洗われ穏やかな気持ちに。
SEASON6では、「先祖との絆」に隠された日本人の心を脳科学から解き明かしていく。
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妹を嫁がせた【浅井長政】
(1545-73)1567年、信長は京への上洛ルートを確保するため、妹・お市を長政に嫁がせ、浅井氏との同盟を結び、その後蜜月関係が続いた。
▼しかし、元亀元年(1570)、越前の朝倉攻めの途中、長政の裏切りが発覚。 九死に一生を得た信長の怒りは激しく、姉川の戦いで浅井朝倉連合軍を破り、天正元年(1573)には長政の本拠地の小谷城を攻め、 長政を自害に追い込み浅井氏を滅ぼした。享年29。
なぜ信長は長政に裏切られた?
▼信長は裏切られた時、当初理由が分からず「近江の半分を任せている。そのことに不服を持つとは思えない。 嘘に決まっている」と全くとりあわなかったという。
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浅井長政の墓【徳勝寺】
(滋賀県長浜市)小谷城落城後は、長政の妻・お市の方のため秀吉が、徳勝寺と改称して長浜城内に寺を移設。その後、長浜城下に移転。 さらに寛文12年(1672)、長政の百回忌の際、現在地に移転。また、浅井三代の墓石は、延長坊万年寺にあったものを昭和37年、 浅井家顕彰会が徳勝寺に移したもの。
▼長政とお市の生き残った三姉妹は信長の姪。
- ●長女・淀は、秀吉の側室に。
- ●三女・お江は、2代将軍・徳川秀忠の正室。
- ●お江と秀忠の娘・和子は後水尾天皇の皇后に。三代で滅亡した浅井家だが、 墓のある徳勝寺は、信長、秀吉、徳川幕府、そして皇室からも庇護を受けることになり、 浅井家は途絶えたがお墓は守り続けられた。
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【山の辺霊園】
(奈良県天理市柳本)鎌倉時代ごろから庶民は「五輪塔」を作り始め、室町時代後期には、安価に石塔を建てる方法として、 「舟形光背形に五輪塔」、「宝篋印塔」、「宝塔」などの石塔を浮彫にした墓塔が現れる。江戸時代前期には小型化だけでなく、 仏塔の「浮彫」も無くなっていき、「~~霊位」のように「霊が宿る」ものとしての銘文に変わって行く。
石塔が「仏塔を建てて功徳を積み、そのご利益で供養する」との考え方から、「霊の依り代(位牌のように霊が宿っているもの)」 として変化していく歴史が全部見ることができる「お墓の博物館」のような墓地。