
歴史上の偉人たちや庶民のお墓を訪ね、
日本人の死生観はどんな風に変遷してきたのか?
庶民たちは先祖とお墓にどう祀ってきたのか?
お墓から見えてくる「知られざるニッポン」の姿を探り出し、
「人は誰もが歴史に参加している」の
“意味”を解き明かしていきます。



才能に恵まれながらも栄光を
つかむことのできなかった者たちの姿を追う


【木曽義仲】 (1154-84)
源頼朝・義経とは従兄弟だが、一族の対立により義平に父・義賢を殺され、2歳の義仲は木曽に落ち延びた。
1180年、平氏討伐で以仁王が挙兵。義仲も信濃で挙兵し、1183年、平家一門を都落ちさせる快挙を果たす。しかし上洛後、後白河法皇と皇位継承問題で意見が対立し朝敵とされ、すでに法皇と手を結んでいた頼朝に追われる立場に。後白河法皇、頼朝たちの政治的駆引きに翻弄された義仲は、頼朝が義仲討伐として送った弟の義経の大軍の前に追い詰められ、近江国粟津で腹心の部下で乳兄弟である今井兼平と共に壮絶な最期を遂げる。
「ぶっきらぼうだが根は実直」な性格で、「義仲四天王」や「巴御前」など、忠義に厚い有能な人物たちに慕われていた。

巴御前が供養した義仲の墓【義仲寺】
義仲最期の地にほど近い義仲寺【滋賀県大津市】は、木曽時代から彼を支えてきた側室の巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまる。義仲の隣には「巴御前」の墓も建てられている。
義仲ファンの男が義仲を再び歴史の表舞台に!!
死後500年を経て義仲は再び脚光を浴びた。俳人・松尾芭蕉は真っ正直で情に厚い義仲の生きざまに憧れていた。芭蕉は幾度も無名庵(現在の義仲寺)に足を運び、「骸は木曽塚(義仲寺)に送るべし」との遺言を残し、弟子たちはその遺言通り、義仲の墓の右隣に芭蕉の墓を建てた。芭蕉によって義仲の歴史は再び動き出したといえるのではないだろうか。

お墓の歴史が一目瞭然【多田来迎寺】
奈良市都祁の来迎寺には、多田氏一族の墓地がある。多田氏は、「河内源氏」の義仲や頼朝とは縁戚にあたる「摂津源氏」の流れを汲む一族でこの地に移り「大和多田氏」と呼ばれれていた。
墓地には、14世紀~16世紀頃の高さ2.4mの五輪塔と宝塔を筆頭に、大小100基ほどの五輪塔が立ち並ぶ。中世に「五輪塔」という供養塔から始まった墓が、個人の墓標、そして家族代々の墓として定着していく過程がわかる。現在も、多田氏やその家来の末裔の人たちが、800年近く前の先祖を参ることがあるという。

今回は、カジポンさんの
ご先祖さまの話。
カジポンさんの先祖はなんと!!
「平家にあらずんば人にあらず」と、この世の春を謳歌していた平家。
その一門の棟梁である平清盛の四男で、「一ノ谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」などで平氏一の猛将として名を挙げた知盛の、、、、さらに息子の知忠の、家臣だったそうです!
ということは、平氏を「都落ち」させた張本人の木曽義仲は、カジポンさんの先祖の憎き仇ということなんです。
先祖の憎き仇である義仲の墓に行くということは?
カジポンさんお馴染みの「ソウルトーク」は、
いつもは「感謝」の気持ちを伝えていますが、
今回は、一体どんな気持ちを伝えるんでしょうか!?
放送をお楽しみに!!
壬生寺で「新選組」隊士の
墓の秘密に迫ります!!