#3 江戸時代「赤穂浪士~武士の本懐」
縁もゆかりもない先人の教訓を得る墓巡り
今回のSAESON3のテーマは、
「一撃に賭けた男たち」。
「義のため」に無謀とも思える戦いに向かった男たちの存在は、今も我々日本人の心を揺さぶり、愛され続けている。そんな歴史上の人物を当時の庶民たちはどう見ていたのか。その墓の祀り方から紐解いていきます。
また、好評を博している「庶民のお墓」。
今回は、さらに踏み込み、「墓の形」だけではなく、
「死者に対する思い」を風習・文化・習俗という民俗学的な観点から、
「庶民たちがお墓をどう大切にしてきたのか」を紹介します。
偉人の墓「赤穂浪士」
元禄14年(1701年)、江戸城松之大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた。将軍・綱吉は激怒し、内匠頭は即日切腹、浅野家は断絶。対して吉良には何の咎めもなかった。赤穂藩では、「籠城」「切腹」「討入り」と意見は割れたが、筆頭家老の大石内蔵助は、「喧嘩両成敗が掟だが、吉良は許されている。であれば浅野家再興の可能性もあるのでは」と考えていた。藩内を抑えて「浅野家再興」のため奔走する。
大石内蔵助の決断~
「武士の本懐を遂げる!!」
しかし、大石の願いも虚しく、浅野家の再興の望みは絶たれた。ついに大石は決断する。「喧嘩両成敗を自分たちで果たし、武士の本懐を遂げる」元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士たちは、元禄15年12月14日(1703 年1月30日)深夜、吉良義央の屋敷に討ち入り、仇討ちを果たした。何よりも名誉を重んじるのが武士の生き様。しかし、戦国の世から100年経った天下泰平の時代。江戸の庶民たちが熱狂したのは、すでに忘れつつあった「武士の本懐」を遂げる彼らの行為だった。浅野内匠頭の切腹から実に1年9か月後のことだった。
墓所「万松山 吉祥寺」(大阪市天王寺区)
大坂にある浅野家の菩提寺で、浅野内匠頭は参勤交代のたびに吉祥寺に訪れたという。討入り後、四十七義士のひとりで切腹をせず国元に知らせに走ったといわれる寺坂吉右衛門が吉祥寺に立ち寄り、四十六士の遺髪、鎖帷子など持込み、義士の冥福を祈る碑を建てるように依頼したと言われている。
庶民の墓【蒲生墓地(野田墓地)】
(大阪市)
先祖からの教訓を得るための墓巡り~
大坂七墓巡り
江戸時代の大坂では、七墓と呼ばれる大坂周辺の七ヶ所の墓地を巡拝して無縁仏を供養することで功徳を得る「七墓巡り」が流行した。自分の先祖を祀るだけでなく、無縁となった死者にも思いを馳せ、墓に刻まれた教訓を学び、自分の命に向き合い、自分を振り返る大事な行為は、今につながる。