#3 最終回 江戸・幕末
腐敗した幕府を「世直し」 大塩平八郎
切っても切れない先祖との繋がり。日本人はお墓と共に生きてきました。
お墓参りとは、先祖や亡き大切な人たち、そして自分を取り巻く全てのものに感謝することではないでしょうか?
この番組では3回に渡り、歴史の偉人たちのお墓を訪ね、お墓の歴史を通して忘れたくない日本の心を再発見していきます。
『お墓から見たニッポン SEASON 2』は
「非業の死を遂げた悲劇の男たち」がテーマ。
最終回は、浪花の庶民のために江戸幕府に立ち向かった『大塩平八郎』のお墓を訪ねます。日本人の“敗者” に対する意識・こころの在り方を、 その墓の祀り方から紐解いていきます。
『腐敗した江戸幕府を“世直し” 大塩平八郎』
江戸末期の大坂町奉行所の与力で陽明学者(1793-1837)
与力とは、現在の警察署長と裁判官や検察官を兼任する
奉行に次ぐ指揮官のこと。
大塩は敏腕与力で名をはせたが、38歳の若さで辞職。
当時、数年に渡る天保の大飢饉で米の値段は6・7倍に跳ね上がり、餓死者は一冬で5千人にも達していたが、腐敗した幕府は無策のまま。
平八郎は、たびたび奉行所に窮状を訴えたが取り上げられず、ついに死を覚悟の上で世直しを決意。
弟子や貧しい農民とともに反乱を起こす(大塩平八郎の乱)。
幕府の直轄地で、幕府の元役人が反乱したため、幕府に動揺が走るが、威信を懸けた制圧で反乱は一日で終息する。
そして平八郎は計画通り、用意していた火薬に火をつけ爆死という壮絶な最期を遂げた。
乱を起こし、爆死することで「幕府に対し反乱が起きた」という噂が広がることを狙ったものだった。
その狙い通り、乱をきっかけに各地で一揆や打ち壊しが起こり、幕府を震撼させたのだった。
「幕府から大塩の墓は禁じられていたが…」
現在の大阪市北区にある成正寺を菩提寺としていた大塩家だが、平八郎の墓は幕府から禁じられていたため、明治に入りようやく建立された。
その後、昭和20年の大阪大空襲で損傷したが、昭和30年、再び元の場所に復元されている。
さらに乱150年を記念し昭和62年には「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が大塩事件研究会員及び全国有志の浄財により建立されるなど、庶民のために立ち上がった平八郎に対して、大阪人は特別な思いを抱いているのではないだろうか…。
江戸時代 「両墓制が出現」
江戸時代に入ると、遺体を埋めた場所はやはり穢レの場所だから、あまり近づきたくない…ということで、別の場所に「参る」ための墓を建て、埋める場所と参する場所を分けた、「両墓制」という墓地が出現。奈良県宇陀市には、今も両墓制の「埋め墓」が残っている。山の斜面の段々に土葬されている姿は、まるで日本のピラミッドのようだ。
「習俗化した墓参りとその歴史」
日本での墓参りは、606年、推古天皇の時代に記録があり、その後、平安時代には、貴族などが昇進した際に、両親の墓に報告したという記録も残っている。
その後、時代とともに武士階級など上流階級で主に催され、一般庶民に広まったのは江戸時代といわれている。