第389回「明・清朝の皇帝陵墓群<2>」
~永楽帝の陵墓「長陵」~
2016年3月10日(木)放送
明十三陵の中で最も荘厳たる陵墓は、第3代皇帝・永楽帝の「長陵」である。1409年に創建され、中には永楽帝の像が鎮座している。都を南京から北京に移し、紫禁城を建設した永楽帝。歴代皇帝の陵墓をこの地に定めたのも永楽帝である。明王朝の礎を築いた名君は、十三陵に葬られた最初の皇帝となった。
第388回「明・清朝の皇帝陵墓群<1>」
~皇帝たちの壮大な陵墓~
2016年3月3日(木)放送
北京の観光名所として知られる、明十三陵。明王朝の13人の皇帝が眠る墓である。その地下には皇帝や后の棺とともに、贅を尽くした副葬品があふれている。14世紀から20世紀にかけ栄華を誇った、明と清、ふたつの王朝。その歴代皇帝の墓は中国の広大な大地に点在しており、明十三陵はその一部である。世界文化遺産、「明・清朝の皇帝陵墓群」。
第387回「泰山<12>」
~自然遺産としての泰山~
2016年2月25日(木)放送
広い平野の中に孤立してそびえる泰山は、地殻変動によって生み出された自然遺産でもある。さらには、中国の最も東にある神聖な山で、日の出を最初に迎える場所であるため、人々は命の生まれる場所だと信じた。聖山とされてきた所以である。泰山は岩山だが、8割を樹木が覆っている。植物の品種は多種多彩で、その数、およそ2000。絶滅危惧種に指定されているものも多く、貴重な自然が残されている。
第386回「泰山<11>」
~霊力を持つ泰山の石碑~
2016年2月18日(木)放送
数々の石碑が残る泰山には、「石敢当(せきかんとう)」と呼ばれるちょっと変わった石碑がある。中国の民間伝承によれば、石敢当とは元々人の名前であった。武人とも力士ともいわれ、その強さは天地を返すほどだったと伝わる。石敢当はその死後、泰山で石となり、さらに魔を祓い除ける霊力があるとされた。そのため、家の塀などに石敢当を埋め込む風習が広まっていった。
第385回「泰山<10>」
~泰山を旅したあの名君~
2016年2月11日(木)放送
1790年の春、清王朝第6代皇帝・乾隆帝は泰山を訪ねた。乾隆帝、時に80歳。皇帝が泰山で行う「封禅」の儀式が途絶えて、すでに800年近く経っていた。この時、乾隆帝は皇帝としてではなく、一人の文人としてこの山へやってきた。いでたちも文人のそれであったという。泰山には多くの文人が訪れつくった文章が残されており、乾隆帝の詩もまた、泰山の石碑に刻まれている。
第384回「泰山<9>」
~中国一尊敬される山~
2016年2月4日(木)放送
その山は、かつて皇帝たちが尊敬し、今でも庶民たちが最も敬愛する山。『史記』の著者として知られる司馬遷は、投獄されている友人への手紙の中で、「人には必ず死がある。しかし泰山より重い死もあれば、鴻の羽毛より軽い死もある。それは目的の違いによるもの」と書いた。いわゆる「泰山鴻毛」の故事である。泰山は中国人にとって、それほど大きな存在なのだ。さらなる物語へと誘おう。世界複合遺産「泰山」。
第383回「秦の始皇陵<19>」
~始皇陵に隠された悲劇~
2016年1月28日(木)放送
戦国6カ国を滅ぼし中国を統一した始皇帝は、紀元前210年、旅の途中でこの世を去る。ここで恐るべき陰謀が巻き起こった。丞相の李斯と宦官・趙高、始皇帝の末子・胡亥が謀り、偽の詔を発した。これにより、長男・扶蘇は自害させられ、胡亥が二世皇帝となったのである。その後、胡亥は残る20人以上の皇族を処刑した。1977年に発掘された皇族たちの陵墓からは、殺害されたとみられる遺骨が多数発見されている。
第382回「秦の始皇陵<18>」
~さらなる地下軍団の発掘~
2016年1月21日(木)放送
1977年、新たな坑が発見された。三号坑と呼ばれるこの坑は、兵士たちで構成されている一号坑、二号坑とは異なった様相を見せていた。司令官が作戦を立案し、兵に指示を与える司令部だったと考えられている。さらに2001年に発見された俑の中には、長冠をかぶっており、腰にナイフと細長い小袋を帯びているものもあった。これらは文官の俑と判断された。
第381回「秦の始皇陵<17>」
~地下に眠っていた兵馬俑~
2016年1月14日(木)放送
1974年に発見された秦時代の陶器の像、俑。出土した村で本格的な発掘調査が始まったのは、その年の7月だった。1年の発掘作業ののち、世界は驚愕することになる。地底に眠っていたのは、夥しい数の兵士や馬、戦車からなる大軍団。さらにその兵馬俑はすべて東を向いていた。それは秦が滅ぼした6つの国があった方角である。
第380回「秦の始皇陵<16>」
~世紀の発見~
2016年1月7日(木)放送
1974年1月29日。陝西省の西楊村のはずれで、井戸を掘っていた村人が不思議なものを見つけた。陶器でできた人の頭の破片だった。臨潼県の文化芸術管理員は、破片をつなぎ合わせてみた。すると完全な形の陶器の像、「俑」が復元された。それらは兵士の姿で、実際の人間とほぼ同じ大きさ。これがすべての始まりだった。物語は終わらない。世界文化遺産「秦の始皇陵」。