第399回「西逓・宏村<15>」
~贅を尽くした宏村の建築~

2016年5月19日(木)放送

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宏村出身の大商人、汪定貴(おうていき)の邸宅「承志堂」は清王朝末期の1855年頃に建てられた。宏村で最も豪奢な古民家であり、保存状態も良い。面積は2100平方メートルで、建物は合計7つ。様々な用途に合わせて部屋が分かれており、部屋数は実に60を数える。「承志堂」は安徽省の民家建築の最高傑作と呼ばれている。

第398回「西逓・宏村<14>」
~祖先を祀る西逓の人々~

2016年5月12日(木)放送

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西逓の民のルーツは、唐王朝の皇帝の子である胡昌翼(こしょうよく)と言われている。西逓にある厳かで重厚な雰囲気を漂わせた「敬愛堂」には、胡氏一族の祖先が祀られている。千年昔の皇帝の落し胤、胡昌翼の物語を一族は今も忘れることはない。優れた人物を数多く輩出し、中国全土で活躍してきた、この村の出身者たち。彼らは固い絆で結ばれている。

第397回「西逓・宏村<13>」
~皇帝の落胤伝説が残る村落~

2016年5月5日(木)放送

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唐王朝末期、第19代皇帝・昭宗は反乱相次ぐ都・長安を逃れた。その道中、后がひとりの男児を出産した。赤ん坊は安徽出身の役人によって彼の故郷で密かに育てられ、「胡」という姓を与えられた。昭宗はその後暗殺され、907年唐王朝は滅亡。戦乱の中で生まれた皇帝の落し胤。そんな伝説の残る、奇跡の村落がある。物語は終わらない。世界文化遺産「西逓(せいてい)・宏村」。

第396回「武陵源<8>」
~武陵源にこだまする愛の歌~

2016年4月28日(木)放送

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この地に暮らす民族の一つ、ミャオ族。人口は中国全土で約950万人。武陵源がある湖南省には、200万人が暮らしている。大きな被り物を頂いた色鮮やかな衣装がミャオ族の伝統的な装束である。ミャオ族には、若い男女が互いに相手への思いや胸の内を歌うという古くからの美しい風習も残る。武陵源の山中には今日も、若者たちの歌声が響いているだろう。

第395回「武陵源<7>」
~武陵源に生きる人々~

2016年4月21日(木)放送

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この地には昔からトゥチャ族やミャオ族、ペー族といった民族が暮らしている。彼らの多くは山を背に楼を建てて住まいとしてきた。空中に浮かぶ家屋は湿気や寒さから住人を守り、蛇や虫が侵入するのを防いでくれる。この地を流れる水路を辿って行くと、昔ながらの美しい街へと流れ着く。この街は「鳳凰古城」と呼ばれており、こちらも世界遺産登録を目指している。

第394回「武陵源<6>」
~武陵源の奇岩に残る伝説~

2016年4月14日(木)放送

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武陵源で最も有名な岩が、籠を背負ったごとく見える「薬草摘みの老人」である。この岩にはこんな伝説がある。明の時代、この地で向王天子という指導者が反乱を起こした。しかし明の大軍に追い詰められ、向王天子とその部下たちは、ことごとく谷に身を投げた。向王天子に仕えていた薬草摘みの老人は山から戻り、それを知ると悲しみのあまり石になったという。

第393回「武陵源<5>」
~奇岩が林立する桃源郷~

2016年4月7日(木)放送

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中国ではその絶景を「奇峰三千、秀水八百」と称える。摩天楼のように奇妙な石柱が林立し、その下には幾多の美しい水が流れている。世にも珍しい動植物がその営みを謳歌し、そこに暮らす人々もまた、古くからの美しい伝統を守っている。この地は現世に今なお残る桃源郷。物語の続きを始めよう。世界自然遺産「武陵源」。

第392回「明・清朝の皇帝陵墓群<5>」
~成化帝の陵墓「茂陵」~

2016年3月31日(木)放送

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明十三陵のひとつ「茂陵」は、第9代皇帝・成化帝の陵墓である。茂陵は清の乾隆帝の時代に修復されたが、それ以後は荒廃するままであった。そこで2009年から2年間、大規模な修復が行われた。遺されていたのが基礎部分だけだった陵墓への入口「稜恩門」も、2年の修復ののち、当時の姿が復元された。

第391回「明・清朝の皇帝陵墓群<4>」
~十三陵で発掘された皇帝の棺~

2016年3月24日(木)放送

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1956年、中国政府は歴史的な大調査を始めた。明十三陵の地下にある皇帝の棺を発掘しようというのである。対象となったのは、第14代皇帝・万暦帝が眠る「定陵」。発掘隊は、陵の地下を掘り進めると白い扉の部屋にたどり着いた。中からは皇帝と二人の后の棺とともに夥しい数の財宝が見つかった。その数は実に3000点にも及んだという。

第390回「明・清朝の皇帝陵墓群<3>」
~明十三陵の誕生~

2016年3月17日(木)放送

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紫禁城を建設するとともに皇帝を葬る陵墓の建設を始めた永楽帝は、部下に命じ、風水などをもとに場所の選定をさせた。選ばれたのは北京の北にある天寿山。山水に富む盆地が国家安寧へ導くとの見立てであった。紫禁城と陵墓の建設には、雲南や四川の山奥で伐採された「金絲楠」と呼ばれる貴重な楠が使われた。伐採のため大勢が山へ入り過酷な労働に携わった。