第409回「大足石刻<8>」
~将軍・韋君靖の物語~

2016年7月28日(木)放送

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平民から身を起こし、72の砦を攻略。5万人もの敵を葬ったという韋君靖。「永昌寨」と呼ばれる、巨大な軍事要塞を大足に築き、この地を守った。韋君靖は最初の毘沙門天像や幾つかの龕像(がんぞう)を作っている。金箔が使われ、鮮やかな色彩が今も残る「千手観音像」と「釈迦牟尼像」である。彫刻の美しさ、全体の構図など、一目見ただけで韋君靖が仏教に深く帰依していたことがうかがえる。

第408回「大足石刻<7>」
~大足石刻を作った人々~

2016年7月21日(木)放送

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韋君靖が最初の石刻を作り、それ以降大足では盛んに仏像が刻まれた。何故、都から遠く離れたこの地にこれほどの技術を持った者たちがいたのか。実は唐王朝の皇帝は2度に渡り、戦乱を避けて四川へ逃れている。皇帝が逃れる際、それに従ってきたのが僧侶や芸術家たちだった。大足石刻は彼らが花開かせた文化の賜物だったのである。

第407回「大足石刻<6>」
~大足石刻誕生の物語~

2016年7月14日(木)放送

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唐の時代、一つの城が敵に包囲された。すると城門の上に突如、金色の毘沙門天が姿を現した。同時に金色のネズミが地中から飛び出し、敵の弓を次々と食いちぎり、さらには金の鎧をまとった兵が天から舞い降りて、敵の大軍を退けたという。それを聞いた当時の皇帝・玄宗は喜び、それ以降毘沙門天はこの地で護国の神となったとされる。韋君靖も毘沙門天を刻みこの地の守護を願ったという。

第406回「大足石刻<5>」
~四川の地に刻まれる無数の磨崖仏~

2016年7月7日(木)放送

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唐王朝末期の西暦892年。四川東部を支配した将軍・韋君靖は、この地を守る願いを込め一体の仏像を造らせた。毘沙門天である。これ以後、人々はこの地に次々と石刻を刻んでいった。そして千年の後、この山は中国三大石窟にも匹敵する、大いなる遺産となる。物語の続きを始めよう。世界文化遺産「大足石刻」。

第405回「万里の長城<20>」
~明王朝時代の長城の作り方~

2016年6月30日(木)放送

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我々のよく知るレンガ造りの長城は、多くが明王朝時代に作られたものだ。長城のレンガは様々な方法で連結されている。モルタルのような粘土で固めるほか、鉄で繋ぐ場合もある。海に没する長城として有名な山海関の老龍頭では、海中部分に魚の尾の形をした、ほぞが用いられている。万里の長城という名の巨大な龍は、様々な顔を見せてくれる。

第404回「万里の長城<19>」
~シルクロードを支えた長城~

2016年6月23日(木)放送

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漢時代、長城は秦時代の2倍にあたる1万キロにも延長された。当時の皇帝、武帝は度重なる軍事遠征を行い、広大な領土を築いた。やがて中央アジアや西アジア、ヨーロッパとの交易が盛んになり、シルクロードが誕生する。その道は長城に沿って発展した。西方からは玉と香料、そして未知の文化がもたらされ、中国からは絹、火薬、羅針盤などがこの道をたどって世界に広がった。

第403回「万里の長城<18>」
~古代の長城の作り方~

2016年6月16日(木)放送

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始皇帝は戦国の諸国がそれぞれ築いた長城を破壊するとともに、北方の長城を連結しそれを延長するよう命じた。北方の草原の民からの脅威に備えるためである。秦時代の長城の作り方は、今日でも西北地方の農村などで見ることができる。土を固めてレンガで覆う方法だ。高さ1.5メートルの壁を5人が3時間かけて完成させた。長城建設の苦労がしのばれる。

第402回「万里の長城<17>」
~万里の長城、誕生までの物語~

2016年6月9日(木)放送

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長城のルーツは周王朝にまで遡る。当時多くの異民族に囲まれていた周は、国の守りのために狼煙を上げる「烽火台」を無数に作った。日中に煙を上げる烽火台は5キロごとに、夜間に火を灯す烽火台は20キロごとに設けられた。紀元前770年、周王朝が分裂して誕生した国々はこの烽火台を繋げ、それぞれの国境を守る壁を作り始める。これが最初の「長城」の誕生である。

第401回「万里の長城<16>」
~万里の長城を出現させた秦王朝~

2016年6月2日(木)放送

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秦の始皇帝が将軍・蒙恬(もうてん)らに命じて築かせた長城は、約5000キロ。中国の約1万里にあたる。歴史書によれば、秦時代の長城の建設には兵士や民間の作業員、囚人、女性など100万人近くが駆りだされたという。当時の秦の人口は約2000万人。つまり20人に1人が建設に携わったことになる。物語は終わらない。世界文化遺産「万里の長城」。

第400回「西逓・宏村<16>」
~彫刻の傑作「三絶」~

2016年5月26日(木)放送

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宏村がある地方の建築様式、徽派建築の傑作とされる、「承志堂」。徽派建築の彫刻は、石、レンガ、木彫の三種からなり、その見事さは世に「三絶(さんぜつ)」と呼ばれている。その中でも圧巻なのが木彫である。20人の職人が4年の歳月をかけて完成させたもので、およそ5キロもの金箔が施されている。