第39回「 廬 山<4> 」
~別荘地としての廬山~
2009年6月25日(木)
世界遺産・廬山は今も中国最高の別荘地として知られている。あの毛沢東も廬山をこよなく愛したという。19世紀末イギリス人によって作られた別荘地「グーリン」。イギリス式、バロック式、ゴシック式などとてもここが中国とは思えない様々な様式の建築は高度な芸術性を誇る
第38回「 廬 山<3> 」
~学問の聖地・廬山~
2009年6月18日(木)
廬山には、朱子学の創始者・朱熹が講義を行った「白鹿洞書院」がある。唐の時代に設立されたもので、その後、戦火によって破壊されたが、12世紀の南宋時代に朱 熹が苦心の末復興した。 中国中から多くの優れた人物が集まったこの白鹿洞書院は当時の国の最高学府と言える。中でも異彩を放ったのは、中国に最初に訪れ皇帝にも拝謁したイタリア人宣教師、マテオ・リッチの講義である。彼の来訪により廬山は、東西の文化が交わる場所となった。このことが、後の廬山を大きく変えてゆく 。
第37回「 廬 山<2> 」
~文人たちの廬山~
2009年6月11日(木)
のちに多くの文人が廬山を目指すようになったのは、「田園詩人」と呼ばれた陶淵明の影響が大きいといわれる。才がありながら官に仕えることを潔しとせず廬山に隠遁した陶淵明は、この地で、有名な「桃花源記」を記した。「桃花源記」とは、陶淵明が空想した、理想郷を描いたフィクション。それは初めて“桃源郷”について記された作品でもある。乱世と隔絶された別世界…文人たちはこぞって、そんな廬山に足を運び、優れた文学を、生み出していったのである
第36回「 廬 山<1> 」
~総論~
2009年6月4日(木)
古来より多くの文人を魅了し、吸い寄せてきた、神秘の山々。それが、世界遺産「廬山」である。その山々には、かつて、仙人となり天上に昇った人物の、廬が残されていたという。いつしか人は、その山を、「廬(いおり)の山」すなわち「廬山」と呼ぶようになった。
第35回「 都江堰<4> 」
~機能~
2009年5月28日(木)
三国時代の蜀の丞相・諸葛孔明は、都江堰こそ、豊かさの源であるとして、毎年1200の兵を送り、修理に従事させたという。 堤防がないにも関わらず、洪水を未然に防ぎ、広大な大地を潤す、世界遺産・都江堰。その秘密とは…?
第34回「 都江堰<3> 」
~天才・李冰~
2009年5月21日(木)
およそ2300年前に都江堰を作り上げた人物は、戦国時代の秦の配下であったりひょう李冰である当時の拠点であった成都と、長江の支流・岷江を水路でつなぐべく、工事に取り掛かった李冰。だが、やがて大きな壁にぶち当たった。水路の先に避けることのできない山があったのだ。当時はまだ火薬もなく、山を切り開くには、たがねと石鎚で岩を削っていくしかなかった。ここで李冰が考えた驚くべき方法は?
第33回「 都江堰 <2> 」
~誕生~
2009年5月14日(木)
蜀の国、今の中国四川省は、かつて、あまりの豊かさから「てんぷのくに天府之国」と呼ばれた。その繁栄の源となったのが、この地に豊潤な水をもたらした、世界遺産・都江堰である。都江堰を作ったのは、戦国時代の秦国だった。秦は、強敵である楚を攻めるため、長江を船で下る作戦を立てたが、そのためには、蜀の拠点である成都と長江を水路で繋がなければならなかった
第32回「 都江堰 <1> 」
~総論~
2009年5月7日(木)
その世界遺産は、およそ2300年前に人々の手によって作られ、四川の地を中国で最も豊かな土地に変えた。水不足に苦しんでいた平原は瞬く間に潤い、水上交通は平原の街に富をもたらした。奇跡とまで言われる古代の灌漑施設。その世界遺産の名は「都江堰(とこうえん)」という
第31回「 万里の長城 <5> 」
2009年4月30日(木)
万里の長城は、明王朝を最後に、その役割を終えた。明のとって代わった清王朝は、なぜ、長城を必要としなかったのか? 迫りくる「北の脅威」、ロシア・・・。清王朝は、かつての敵・モンゴルの騎馬軍団を北の辺境でのロシアの備えとした。城壁ではなく、人こそが、国を守る・・・、それが、長い歴史の末にたどりついた答えだった・・・ 。
第30回「 万里の長城 <4> 」
~現在の長城を築いた明王朝の偉業~
2009年4月23日(木)
現在、見られるレンガ造りの長城のほとんどは、明の時代に造られた。大量のレンガを焼いた当時の窯が後世、発掘された。窯一基で、5000個のレンガが焼かれた。明の時代に築かれた長城は、およそ1500キロ。実に100億個のレンガが使われた計算になるという。