第49回「 マカオ <1> 」
2009年9月3日(木)
洋の東西の文化と人が融合した、摩訶不思議は街、それがマカオ。 日本の世田谷区の半分という狭い中に、世界遺産である、22歴史的建造物と8つの広場がある。9月の4回は、各地の文化がちりばめられた、まるで宝石箱のようなマカオへ皆様をご案内いたします 。
第48回「 武陵源 <4> 」
2009年8月27日(木)
武燎源の地は、古くから、トウチャ族をはじめとする少数民族が暮らす。 肥沃な農地に恵まれていない彼らは、山の斜面や高い山で、工夫しながら稲作を 営んでいる。まさに「空中水田」と呼ぶにふさわしい、頂きにある水田もある。 トウチャ族は、工芸にも優れ、「錦織り」は、かつては朝廷への貢物だった。 大自然と祖先を崇拝しながら、今も奥ゆかしい生活を続けるトウチャ族。
第47回「 武陵源 <3> 」
2009年8月20日(木)
武陵源は、希少な動植物の宝庫でもある。温暖で多雨なこの地は、多くの命を育んでいる。ユニークな形の松は、「武陵松」という独特な種。貴重なサルや鳥、オオサンショウウオなど国が指定する保護動物が、数10種類も生息しているという 。
第46回「 武陵源 <2> 」
2009年8月13日(木)
まさに、天空の楼閣、世界遺産・武陵源の摩天楼。 この神秘の絶景はいかにして生まれたのか? 太古の昔、そこは海の底だった。 およそ2億年前、地殻変動により、岩の層が切り裂かれながら海上に顔を出した。 硬い岩と柔らかい岩のばらつきにより、無数の石の柱が出現した。
第45回「 武陵源 <1> 」
2009年8月6日(木)
数100メートルの高さの石柱が林立する、 そこは、まさに、「太古の摩天楼」。 想像を絶する、奇跡の地殻変動生んだ、奇岩群・・・。 唐の詩人・王維が、空想した桃源郷の名が「武陵源」、 その詩が名前の由来。 そびえ立つ石柱の一方で、 その谷間を潤す せせらぎ・・・ まるで空中に浮かぶかのような、水田・・・ 壮麗なる大自然と、そこに暮らす人々の物語・・・。
第44回「 秦の始皇帝陵 <5> 」
~伝説の地下宮殿~
2009年7月30日(木)
歴史資料などによると、始皇帝が作った伝説の地下宮殿は、盛り土の下にあるという。司馬遷の『史記』は、その宮殿の様子を、次のように伝えている。宮殿には、役人たちの俑と、あふれんばかりの宝物があり、天井には、宝石などで作られた太陽や月、そして、あまたの星がちりばめられている。地面には、始皇帝が征服した中国の山や川、そして海が。だがそれらは水ではなく、猛毒である水銀。宮殿に進入するものを拒む。盗掘への備えがなされているのである。この地下宮殿は、発掘自体が難しいとされ、現在も全く手がつけられていない。始皇帝の棺が人類の目に触れる日は、来るのだろうか。
第43回「 秦の始皇帝陵 <4> 」
~現代も続く兵馬俑~
2009年7月23日(木)
始皇帝陵の副葬品は、兵馬俑だけではない。その中には、位の高い文官とみられるものもあった。始皇帝は死してなお、彼らに政をさせようとしていたのである。また兵士でも文官でもない俑も見つかった。何と彼らは、皇帝に曲芸を披露する者たちである中国の雑技団は世界的に有名だが、その曲芸の中には、始皇帝の時代から伝わるものもある。それは…
第42回「 秦の始皇帝陵 <3> 」
~兵馬俑~
2009年7月16日(木)
始皇帝は自らの墓を兵馬俑に守らせたが、その子孫は項羽に滅ぼされ、都は焼かれた。その項羽も、漢の劉邦に滅ぼされる。以来地中深くに眠り、実に2200年にわたり、人々に知られることのなかった兵馬俑。その数千体以上の素焼きの俑は、驚くべきことに一体一体すべて顔が違う。さらに天下を統一した始皇帝の軍隊が、いかに強力であったかを証明するかのように。数千もの兵士や、軍馬、戦車は、当時の陣形そのままに、布陣しているのである 。
第41回「 秦の始皇帝陵 <2> 」
~誕生~
2009年7月9日(木)
始皇帝は紀元前221年に中国を統一した。その始皇帝が自らの墓を建設し始めたのは、それよりずっと早く、秦王に即位した翌年わずか14歳の時。以来始皇帝陵は、およそ40年かけて建設が続けられ延べ70万人もの人々を動員したという。しかしなぜ始皇帝はこれほど巨大な地下帝国を築き、自ら、の墓を守らせようとしたのだろうか 。
第40回「 秦の始皇帝陵 <1> 」
~総論~
2009年7月2日(木)
その世界遺産は2200年前、中国に最初の統一国家を出現させたファーストエンペラーの墓である。いまだ地中に眠る巨大な地下宮殿と、それを守る膨大な数の素焼きの兵士の像。墓全体の規模は56平方キロ。故宮・紫禁城の80倍もの面積にあたる。人類の大いなる遺産。「秦の始皇帝陵と兵馬俑」。