第99回「 武当山の古代建築物群 <3> 」
2010年8月19日(木)
歴代皇帝から崇拝され、その規模は故宮の2倍をも誇る、世界遺産、武当山の古代建築物群。あまたの建造物の中で、最も壮大な規模を誇るのが、紫霄宮(ししょうきゅう)である。およそ600年前に作られた木造建築だが、ほぼ完全に近い形で残されている。
第98回「 武当山の古代建築物群 <2> 」
2010年8月12日(木)
武当山の最高峰である「天柱峰」には、大自然に溶け込むように、美しい建造物が立ち並んでいる。これらの建造に深くかかわったのは、明の三代皇帝、永楽帝である。「靖難の役」と呼ばれるクーデターにより、皇帝となった永楽帝は、どうすれば天下の人心を得られるか、心を悩ませていた。その時思い至ったのが、民から敬われていた、道教の神と武当山の存在である。
第97回「 武当山の古代建築物群 <1> 」
2010年8月5日(木)
その山は中国の中心にそびえ、72の峰が、中心の山を取り巻いている。ここは中国人の精神世界に深い影響を与えてきた、道教の聖地であり、同時に、貴重な建築が立ち並ぶ、壮大な遺産でもある。歴代の皇帝たちまでもが、深く敬い、拠り所としてきた、聖なる山。世界文化遺産、武当山の古代建築物群。
第96回「 麗江旧市街 <5> 」
2010年7月29日(木)
麗江から200キロほど離れた高原にある、「瀘沽湖(ろここ)」。神秘の美しさを持つ、この湖のほとりに、ナシ族の一派といわれる、モソ族が暮らしている。モソ族の家庭には、驚いたことに、夫も父親もいない。そう、モソ族は世界でも珍しい、母系社会を維持し続けているのだ。
第95回「 麗江旧市街 <4> 」
2010年7月22日(木)
古き街並みが今も残る、世界遺産・麗江旧市街。ここに暮らすナシ族たちは、千年の昔に中原からこの地に伝わった音曲を、今も受け継いでいる。老人たちが奏でる音曲は、かつて唐王朝の正統的な雅楽であったが、今はここでしか聞くことができない。演奏している楽器も、中原ではすでに失われた古楽器である。
第94回「 麗江旧市街 <3> 」
2010年7月15日(木)
麗江旧市街に暮らす、少数民族のナシ族は、世界でただ一つ、今も使われる象形文字を持っている。「東巴(トンパ)文字」である。ナシ族は古くから、文化をトンパ文字で紙に記してきた。トンパとは、ナシ族の言葉で「知恵ある者」という意味である。文字を操ることができるのは、ナシ族の祭司である。1600もの記号からなるトンパ文字で、経文を記すのである。
第93回「 麗江旧市街 <2> 」
2010年7月8日(木)
世界文化遺産・麗江旧市街は、少数民族ナシ族30万人のふるさとである。北部の山中にある屈指の景勝地「白水台」は、ナシ民族の発祥地であると信じられている。日が昇り、沈むたびに、姿を変えるその光景は、神聖なる気に満ち満ちている。
第92回「 麗江旧市街 <1> 」
2010年7月1日(土)
その世界遺産は、少数民族ナシ族が暮らす楽園。豊かな雪解け水が縦横に流れる、清冽な街。そして、象形文字が今も生きる、時が止まった街。世界文化遺産、麗江旧市街。現代に残る桃源郷に秘められた、物語とは…。
第91回「 終焉 <4> 」
2010年6月24日(木)
敦煌、龍門と並ぶ、中国三大石窟のひとつ、世界遺産「雲崗石窟」。これを造った鮮卑の王朝・北魏は、最盛期の孝文帝の時、大きな転機を迎える。5歳で即位した孝文帝は、その祖母で、漢族出身の、文明大后(ぶんめいたいこう)の薫陶を受けて育った。孝文帝は、北魏王朝の政治を、漢族の伝統に基づくものに改革し、漢族と鮮卑族の融和を図ろうとした。自らの姓も、鮮卑風の「拓跋」から、漢族風の「元」に変えた。そして、天地を揺るがすほどの大改革を敢行。都を、遥か南の洛陽に移したのである。これにより、雲崗石窟は、その歴史を閉じた。漢族を重用するようになった北魏王朝は、その後、鮮卑族の不満が増大し、滅亡への道を歩む。壮大な雲崗石窟は、その皮肉な歴史を、今に伝えている。
第90回「 雲崗石窟 <3> 」
2010年6月17日(木)
中国三大石窟のひとつ、世界遺産「雲崗石窟」。異民族の王朝・北魏は、漢族の信頼を得るため、仏教を導入したが、第三代皇帝・拓跋燾(たくばつとう)は、大規模な廃仏を行った。しかし、これは民衆の信頼を失わせることとなった。そこで第四代皇帝・拓跋濬(たくばつしゅん)は、民心を取り戻すべく、歴史的事業に乗り出す。曇曜(どんよう)という名の僧に、石窟の造営を命じたのである。それが、初期の5人の皇帝を模した大仏、「曇曜五窟」。インドの仏像とは一線を画す、中国人好みの顔立ち、ここに、中国流の仏教美術が誕生したのである。