第109回「 曲阜の孔廟、孔府、孔林 <4> 」

2010年10月28日(木)

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孔子を祀る孔廟の東には、直系の子孫が代々暮らしてきた「孔府」がある。事務を行う、いわばオフィス部分と、一族が暮らす住居からなり、463室の部屋がある。一族の墓所である孔林は、総面積2平方キロメートル。ここに眠る孔子の子孫は、何と10万人にも及ぶという。

第108回「 曲阜の孔廟、孔府、孔林 <3> 」

2010年10月21日(木)

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孔子を祀る孔廟は、驚いたことに、孔子の死の直後に、早くも設けられた。そして、以後2000年以上にわたり、中国の歴代皇帝が増築、改修。現在のような、巨大な建築群となった。その規模は紫禁城と並ぶほどである。

第107回「 曲阜の孔廟、孔府、孔林 <2> 」

2010年10月14日(木)

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孔子が生涯の職業としたのは教師である。孔廟には、孔子が弟子に講義を行った場所がある。11世紀に創建された「杏壇」。高さは12メートル。天井に描かれた極彩色の絵が美しい。この杏壇の奥にある巨大な建物が、孔子を祀った「大成殿」である。清朝の雍正帝により、皇居と同じ格式で建てられた。

第106回「 曲阜の孔廟、孔府、孔林 <1> 」

2010年10月7日(土)

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「三孔」とも呼ばれる、孔廟、孔府、孔林は、山東省曲阜市にある。皇帝の宮殿と並ぶ、格式と規模を誇る、孔子を祀った「孔廟」。孔子の直系の子孫たちの邸宅である「孔府」。そして、孔子と子孫が葬られている墓地、「孔林」。まるで孔子の思想を体現したかのような、大いなる遺産を巡る旅へ、あなたも。

第105回「 承徳の避暑山荘と外八廟 <5> 」

2010年9月30日(木)

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承徳避暑山荘の終焉。最盛期の皇帝、乾隆帝は、82歳の誕生日を、この山荘で迎えた。その日、イギリスの特使、マッカートニーがやってきた。ここで思わぬトラブルが。皇帝は、イギリス特使に、中国流の作法を強要しようとした。 対等な関係を望むイギリス特使は、これを拒否し、山荘を後にした。後に起こったアロー戦争で、清朝は衰退の一途をたどるのだか、そのアロー戦争で、イギリスが使用した地図は、マッカートニーの使節団が収集した情報を元に作成されたものだった、という。

第104回「 承徳の避暑山荘と外八廟 <4> 」

2010年9月20日(月)

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承徳避暑山荘で最も有名な寺廟は、チベットのポタラ宮を模したものだ。当時の皇帝は、中国を一つにまとめるために、チベットとの親交に力を入れた。チベットの、時の指導者、パンチェン・ラマを招いた際に、わざわざ、ポタラ宮を模した寺院を築いたという。

第103回「 承徳の避暑山荘と外八廟 <3> 」

2010年9月16日(木)

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承徳避暑山荘の、荘厳な建築の数々。清の皇帝が、夏の離宮として建設した、「承徳の避暑山荘と外八廟」。そこには、宮殿建築と宮廷庭園のエッセンスが見事に共存している。素朴で優雅な趣が実現されている宮殿の数々、長江の景勝地を再現した水辺、万里の長城のミニチュア版とも言うべき、石組みの壁もある。そう、ここは、中国の国土を再現した、壮大なる庭園なのである。

第102回「 承徳の避暑山荘と外八廟 <2> 」

2010年9月9日(木)

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承徳の避暑山荘を造った、皇帝の狙いとは?それは、対ロシアを見据えた、外交防衛計画の一端だった。清朝は、ロシアを牽制する為に、勇猛なモンゴル部族を盾にする戦略を立てた。モンゴル部族との連携をスムーズにし、北方ににらみを利かせるために、万里の長城の北に“巨大なくさび”を打ち込んだ。それが、承徳の避暑山荘である。 場所の選定、宮殿の設計、建設の指揮まで、時の皇帝が自ら執り行ったという。

第101回「 承徳の避暑山荘と外八廟 <1> 」

2010年9月2日(木)

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その世界遺産は、この世で最も広大で、荘厳な、皇帝の避暑地。世界文化遺産 「承徳の避暑山荘と外八廟」。それは、北京の北東230キロ、万里の長城の北にある。避暑山荘と周囲の寺院・・・、広さは、実に紫禁城の約8倍。18世紀、清朝の、時の皇帝は、1年の半分をここで過ごし、政も行った。ここは、単なる避暑地ではなく、壮大な外交防衛構想が秘められた場所でもあった。

第100回「 武当山の古代建築物群 <4> 」

2010年8月26日(木)

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明の時代、張三豊という道士が、この武当山へやってきた。伝説によれば張三豊は、「武当太極拳」の創始者だという。張三豊は、陰と陽の2つの気の流れにより、身体が、天地・宇宙とつながっているという、道教の思想を取り入れ、「武当太極拳」と呼ばれる武術を完成させた。この武当太極拳から、今では多くの中国人が実践する太極拳が生まれたのである。