第119回「 古琴 <1> 」
~総論~

2011年1月6日(木)放送

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その、たおやかなる旋律は、3000年の昔から中国の文人たちによって奏でられてきた。聞こえてくるのは音色ばかりではない。奏でる者の心と、その内に秘めた魂までもが、琴の響きには宿っている。世界最古の弦楽器の一つ、無形文化遺産「古琴」である。

第118回「 龍門石窟 <4> 」
~終焉~

2010年12月30日(木)放送

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世界文化遺産「龍門石窟」。最も有名な仏像が、則天武后の尽力によって完成した「盧舎那仏」である。大仏の両側には、釈迦の弟子である、迦葉と阿難。その外側には、文殊菩薩と普賢菩薩。さらに、力士像などが並ぶ。十一体からなるこの仏像群は、まぎれもなく、中国仏教美術の最高傑作の一つである。三代皇帝・高宗の妃であった則天武后は、高宗の死後、帝位を簒奪し、のちに「武周」と呼ばれる王朝をたてる。則天武后が権威の拠り所としたのは、やはり仏教であった。則天武后は「弥勒菩薩」の生まれ変わりと敬われ、女帝の命により、龍門石窟に多くの仏像が作られた。そんな龍門石窟の隆盛も、則天武后の治世の終焉の後、しだいに輝きを失っていった。705年、則天武后は帝位を唐王朝に返上し、その10か月後に病死した。死後、建てられた高さ8メートルの石碑には、遺言により、何も記されなかったという。

第117回「 龍門石窟 <4> 」
~盧舎那仏~

2010年12月23日(木)放送

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世界遺産「龍門石窟」には、則天武后にまつわる有名な大仏がある。高さ17メートルの「盧舎那仏」。西暦675年に完成したこの大仏は、奈良・東大寺の大仏の手本となったことでも知られる。時は唐王朝の初期。名君・太宗の女官であった武照は、太宗の死後、尼になった。その後、三代皇帝・高宗に見初められ、宮廷に戻り妃となる。この武照こそが、後の則天武后である。武照は病弱だった高宗を助け、たぐい稀な知略と政治手腕で、唐王朝を隆盛に導く。そんな中、武照の尽力で完成したのが盧舎那仏だった。「盧舎那」とは下界をあまねく照らす光明。武照にとって盧舎那仏は、自らの化身であった。

第116回「 龍門石窟 <3> 」
~則天武后~

2010年12月16日(木)放送

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遊牧民族の鮮卑が打ち立てた王朝、北魏が、洛陽に遷都して以降、これらの石窟が作られた。北魏は漢族を従えるため、仏教を利用すると同時に、積極的に漢族の文化、風習を取り入れた。北魏がかつて作り上げた「雲崗石窟」の仏像は、痩せてスラリとしたスタイルだったが、「龍門石窟」の仏像は、それとは違い、漢族が好む、ふくよかさが感じられる。しかし、こうした漢文化への傾倒は、鮮卑族の不満をしだいに増大させ、遷都から40年後、北魏は滅亡。龍門石窟も、その輝きを失っていった。龍門が再び活気を取り戻すのは、およそ150年後。その主役は、中国史上唯一の女帝、則天武后である。

第115回「 龍門石窟 <2> 」
~誕生~

2010年12月9日(木)放送

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5世紀の終わり、石窟の建設に着手したのは、北方の遊牧民・鮮卑が打ち立てた王朝、北魏だった。中国北部を統一し、大同を都とした北魏は、かの「雲崗石窟」を作り上げたことでも知られる。北魏は漢民族を支配するにあたり、仏教を利用した。中でも最も篤く仏教を信仰したのが、全盛期の皇帝、孝文帝であった。この孝文帝の祖母は、漢族出身で、北魏王朝の実権を握った、文明大后。幼くして即位した孝文帝は、その薫陶を受けて育ち、漢族の風習、文化に大きく傾倒していった。そしてついに北方の大同から、中国の古都・洛陽へ遷都を決行する。これにより、北魏の石窟建設の舞台は、雲崗から龍門へと移った。女性でありながら大きな権力を握った、文明大后の影響が、雲崗と龍門には色濃く残されているのである。

第114回「 龍門石窟 <1> 」
~総論~

2010年12月2日(木)放送

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古都・洛陽の南を流れる黄河の支流、伊水を挟んで、その世界遺産は横たわっている。2100余りの窟龕と、10万体もの仏像からなる、南北およそ1キロの 石窟群は、敦煌、雲崗と並び、中国三大石窟に数えられる。6つの王朝にまたがり、400年もの時をかけて造られた芸術の数々。世界文化遺産「龍門石窟」で ある。

第113回「 ラサのポタラ宮歴史地区 <4> 」
~ダライ・ラマの誕生と、その数奇な歴史~

2010年11月25日(木)放送

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ダライ・ラマとは、「海のように深く広い学識を持つ尊師」との意味である。荒廃していたポタラ宮を再建したのは、17世紀のダライ・ラマ5世。ダライ・ラマ5世が、現在のポタラ宮の白の部分、「白宮」を建築し、その死後、後継者である、摂政のサンギェ・ギャムツォが、赤の部分、「紅宮」を作った。しかし、現在、主のダライ・ラマは、ここにはいない。

第112回「 ラサのポタラ宮歴史地区 <3> 」
~古代チベット王朝の終焉~

2010年11月18日(木)放送

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チベット博物館には、変わった壁画が残されている。「らせつにょず羅刹女図」。チベットの地形を、魔女である「らせつにょ羅刹女」に見立てた地図である。唐からチベットに嫁いだ妃、ぶん文せい成こう公しゅ主の占いを元に描かれたものだ。7世紀、ラサの多くの寺院は、羅刹女図に見られる、 風水に従い建てられたという。

第111回「 ラサのポタラ宮歴史地区 <2> 」
~ポタラ宮誕生の物語~

2010年11月11日(木)

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チベットの王朝であるとばん吐蕃の王、ソンツェン・ガンポは、13歳で即位すると、わずか4年で国内の動乱を鎮めた。そして633年、ポタラ宮を建設する。このチベット王は、2つの偉業を成し遂げた。ひとつは「大乗仏教」の導入。もうひとつは、周辺の大国との同盟である。吐蕃王朝は盤石となり、同時に、チベット仏教の聖地としての、数奇な歴史を歩み始めることとなった。

第110回「 ラサのポタラ宮歴史地区 <1> 」~標高3700メートルにそびえる天空の宮殿~

2010年11月4日(木)

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その世界遺産は、この世で最も天に近い宮殿。 11月は、「ラサのポタラ宮歴史地区」を4回にわたってお送りする。 「ポタラ宮」は、7世紀に建立されたが、17世紀以降に 拡張、増築され、 今の姿となった。 13階建の壮麗な建築である。 また、ダライ・ラマが夏の間を過ごした、離宮がある。 18世紀に作られた「ノルブリンカ」。チベット芸術の粋を集めた建築である。チベットの大いなる遺産。そこには幾つもの、数奇な物語が秘められている。