第269回「殷墟<11>」
~大量に出土した人骨の謎~

2013年11月21日(木)放送

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甲骨文字を発明し、高度な技術で青銅器を作り上げた商王朝。武力も備え国は栄えたが、その反面、古代特有の残虐な風習にも支配されていた。考古学調査では、いたるところから無数の人骨が発掘されている。甲骨文字の記録によれば、商王朝は祖先を祀る際に、奴隷を生贄として供えていた。その多くは戦争で捕らえた異民族であったという。

第268回「殷墟<10>」
~地中から出土した王国~

2013年11月14日(木)放送

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3000年前に商王朝があった地は、その滅亡後、隋唐の時代まで人の住まない土地となっていた。再び人々が住むようになるのは、10世紀に成立した宋王朝の時代になってからであった。清王朝末期、この地から動物の骨が度々出土した。これらは最初、漢方薬として重宝されていたが、のちに漢字のルーツとされる甲骨文字の発見へとつながる。これを発端に、商王朝の研究は飛躍的に進むことになる。

第267回「殷墟<9>」
~古都の遺跡~

2013年11月7日(木)放送

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実在が証明された中国最初の統一王朝・商。殷墟(いんきょ)は、紀元前11世紀に滅びたこの都の遺跡である。王陵区にある墓は、どれも4条の参道を持つが、一つだけ参道のない未完成の墓があった。専門家はこの墓をあの暴君・紂王のものと推測している。酒池肉林にふけって、商の国を滅ぼしたとされる紂王。だが果たしてその本当の正体とは。

第266回「故宮<14>」
~乾隆帝が残した足跡~

2013年10月31日(木)放送

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清の6代皇帝・乾隆帝によって改修され、現在も残る建物が重華宮と寧寿宮である。重華宮は皇子だった時代に住んでいた場所で、その名は古の伝説の王、舜の名にちなんでいる。寧寿宮を改修した乾隆帝は、そこを「皇極殿」と名付け、隠居所とするつもりであった。しかし乾隆帝は在位60年で退位したものの、その後も実権を握り続け、89歳でこの世を去るまで皇極殿に住んだことは1日もなかったという。

第265回「故宮<13>」
~皇帝・妃たちが暮らした、後宮~

2013年10月24日(木)放送

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太和殿、中和殿、保和殿を過ぎ、乾清門をくぐると、そこは皇帝と妃たちが暮らした、後宮である。後宮には、皇帝や皇后、妃たちが愛した、百花咲き乱れる花園が点在している。石畳を歩けば、激務をしばし忘れて花園をそぞろ歩いた、皇帝たちの姿が見えるようだ。

第264回「故宮<12>」
~科挙の最終試験場、保和殿~

2013年10月17日(木)放送

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本殿の太和殿からさらに奥へ進むと中和殿、そしてその奥には保和殿がある。ここは清の乾隆年間以降、科挙の最終試験「殿試」が行われた場所である。殿試は皇帝自らが試験官を務め、受験生は端正な文字で皇帝が出題した問に答えた。提出期限は日没まで。受験者の1万人に1人しかたどり着くことができない、狭き門であった。

第263回「故宮<11>」
~故宮のシンボル、太和殿~

2013年10月10日(木)放送

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故宮の正面玄関・午門を過ぎると見えてくるのが太和殿。内部には72本の柱と、中央に玉座が置かれている以外何もない。実はこの太和殿、落雷による焼失と再建が繰り返され、現在の建物は清の康煕帝(こうきてい)が再建したものである。その際、建物の大きさは3分の2に縮小された。建物に対し台座が大きく見えるのは、そのためである。

第262回「故宮<10>」
~明・清朝の旧王宮~

2013年10月3日(木)放送

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西暦1406年、その宮殿の建設は始まった。総指揮官を命じられたのは泰寧侯(たいねいこう)・陳珪(ちんけい)。命じたのは明の3代皇帝・永楽帝である。官僚たちが中国全土に派遣され、建築資材の調達を行った。数十万の民衆が駆りだされ、苛酷な労働に従事したという。そして15年の歳月をかけ、宮殿は完成した。以後600年以上に渡り、その宮殿は中国のシンボルであり続けている。

第261回「西逓・宏村<12>」
~西逓・宏村を潤す水~

2013年9月26日(木)放送

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2つの村落に無くてはならないのが水である。西逓の民家は大半が、周囲は回廊、中心が吹き抜けの四角形で、雨が降ると四方の屋根から、水が流れ落ちてくるようになっている。これは「四方の水は堂に帰る」という風水の考え方に基づいている。風水の説では水は富の象徴。中国全土で商いをし、富を村に持ち帰った、徽州商人ならではの哲学ではなかろうか。

第260回「西逓・宏村<11>」
~西逓に見える建築の真髄~

2013年9月19日(木)放送

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西逓の家々の屋根には、「馬頭墻(ばとうしょう)」と呼ばれる飾りのついた壁がよく見られる。これは白と黒で統一された西逓の家並みにアクセントを与えている。その今にも空に向かって駆け出そうという姿は、この村から飛び出し、中国全土を席巻した徽州商人の心意気を示しているかのようである。