第279回「万里の長城<15>」
~万里の長城 最後の輝き~
2014年1月30日(木)放送
現存する長城の多くは、明の時代に造られている。1568年、将軍・戚継光(せきけいこう)が、長城の大規模な補修を建議した。戚継光の最高傑作と謳われる金山嶺長城は、堅固な城壁を誇り、その天然の地形を利用した防衛システムは、まさに完璧と言ってよい。長城は明の時代に、防壁としての役割を終え、今はただ、その美しく壮大な光景を私たちに見せてくれるのみである。
第278回「万里の長城<14>」
~長城建設の黄金時代 明王朝~
2014年1月23日(木)放送
万里の長城は、三国時代以降、北方民族が中原を圧倒したため、明王朝時代まで長く用いられなかった。元を滅ぼして建国したことで常に北からの脅威にさらされていた明の洪武帝は、防壁としての長城建設を将軍・徐達に命じた。その徐達が改修したのが、今の北京の近くにある居庸関。当時の首都防衛の最終ラインであった。
第277回「万里の長城<13>」
~漢王朝時代の長城~
2014年1月16日(木)放送
周時代の烽火台を起源とする万里の長城。秦の始皇帝により5000キロが整備され、漢王朝にはさらに拡張した。全盛期には、甘粛、内モンゴル、河北、遼寧といった、広大な地域にわたっていく。甘粛省・敦煌にある玉門関では、土壁と烽火台が連なり建造られた漢王朝時代の様式の長城を見ることができる。
第276回「万里の長城<12>」
~長城のルーツ 烽火台~
2014年1月9日(木)放送
万里の長城のルーツは、文王と武王が興した周の時代に無数に築かれた土塁である。異民族の来襲を狼煙で伝えたため、「烽火台(ほうかだい)」と呼ばれた。およそ5キロ毎に烽火台が置かれ、その伝達速度は24時間で1千キロを超えた。これら幾つもの烽火台をつなげた線が、後に長城となったのである。
第275回「万里の長城<11>」
~全長2万キロの城壁~
2014年1月2日(木)放送
2012年6月、中国国家文物局が万里の長城の総延長を発表した。2009年の調査では8800キロとしていたが、最新の数字はその2倍以上の2万1000キロ。中国の1万里がおよそ5000キロであるから、万里の長城は、実のところ、四万里の長城だったことになる。未だその全容が解明されていない長城。さらなる物語へと誘おう。
第274回「承徳の避暑山荘と外八廟<13>」
~外八廟の建築~
2013年12月26日(木)放送
山荘が完成したのち、その周囲には多くの寺院や廟が建てられた。それが外八廟である。ここには、チベット仏教の寺院も多く見られ、その代表はポタラ宮そっくりの普陀宗乗之廟(ふだしゅうじょうしびょう)。さらには、チベット仏教の指導者、パンチェン・ラマ6世のために造られた離宮まである。当時、中国を取り巻く諸民族が信奉していたチベット仏教を保護することは、清王朝の重要な政策であった。
第273回「承徳の避暑山荘と外八廟<12>」
~乾隆帝が再現した江南の建築~
2013年12月19日(木)放送
この壮大な離宮を建設した康煕帝とその孫、乾隆帝は、ここにそれぞれ36の美しい景観を見出した。これを康熙・乾隆七十二景という。その一つである、「水心しゃ(“しゃ”は“木偏に射”)」。湖の上に門や楼閣が連なる独特の風景が江南の雰囲気を醸し出している。
第272回「承徳の避暑山荘と外八廟<11>」
~江南の風景を再現した湖州区~
2013年12月12日(木)放送
この山荘には、自然の地形を取り入れながら、中国全土の地勢を模した、庭園的要素が盛り込まれている。宮殿区の北にある湖州区が表すのは、長江の南北に実在する、水豊かな風景。「芝径雲堤(しけいうんてい)」は、典型的な江南の庭園様式で、これは杭州の西湖にある「蘇堤」を再現している。
第271回「承徳の避暑山荘と外八廟<10>」
~承徳の建築美~
2013年12月5日(木)放送
承徳避暑山荘は、清の康熙帝以後、皇帝たちが紫禁城を離れ、夏を過ごした離宮である。ここでは、北京の宮殿群とは一線を画す、独特の建築美が見られる。その建築とは、木目をあらわにした素朴なもの。黒レンガに灰色の瓦。まさに北方の古民家の風情である。
第270回「殷墟<12>」
~最後の王・紂王の謎~
2013年11月28日(木)放送
600年続いた商王朝の最後の王は、暴政をふるい、美女に溺れたという紂王であった。そんな紂王を、孔子の弟子・子貢(しこう)は世間で言われているほどの暴君ではなかったのではないかと述べている。というのも、甲骨文字の記録には、紂王が奴隷の生贄をやめようとしていた形跡が残されていたという。紂王を最後に3000年前に滅亡した商王朝。その興味は尽きない。