第339回「大足石刻<4>」
~中国石刻芸術、最後の輝き~
2015年3月26日(木)放送
400年以上に渡り刻まれた5万体もの磨崖仏、『大足石刻』。最も絢爛たる石刻が刻まれた宝頂山には、人の道を説く長大なストーリーが刻まれている。その行き着く先にあるのが『円覚堂(えんがくどう)』。悟りの境地に至るための場所だという。薄暗い内部には、水滴の音が響いている。中央に坐する菩薩は、12体の円覚菩薩を率いて、正面の三体の仏に向かい、教えを乞うている。
13世紀以降、四川地域はモンゴルの攻撃を受け、大足の石刻造営は衰退し、忘れ去られてしまった。奇跡の石刻群が人々に知られるようになったのは、20世紀になってからである。
第338回「大足石刻<3>」
~金色に輝く千手観音~
2015年3月19日(木)放送
大足石刻の石刻群の中で、人々を圧倒する大傑作が『千手観音像』である。その手はまさしく千の数に達するほどに見え、一つ一つが違う仕草を見せている。この千手観音の手の数は、民間伝承で長らく1007本と言われてきたが、近年の研究で830本だと判明した。あまねく全ての人を救うとされる千本の手。職人たちはどんな思いでこの像を掘ったのだろうか。
第337回「大足石刻<2>」
~大足石刻の顔、涅槃像~
2015年3月12日(木)放送
石刻が刻まれている5つの山の中で、最も絢爛たる彫刻を見ることができるのは、『宝頂山(ほうちょうざん)』である。南宋時代の僧、趙智鳳(ちょうちほう)によって作られた。その中の大仏湾と呼ばれる彫刻群には、仏教の物語や、道徳、庶民の生活などが、延々と、ダイナミックに刻まれている。大仏湾の顔とも言えるのが、巨大な『釈迦涅槃像』。幅は31m。長大なパノラマのクライマックスである。
第336回「大足石刻<1>」
~中国石刻芸術の最高峰~
2015年3月5日(木)放送
かつて『蜀(しょく)』と呼ばれた四川地方にある重慶市。
ここにある大足石刻は、5つの山に刻まれた石刻群で、彫像の数は5万体を超える。主に唐王朝末期の9世紀から南宋時代まで400年にわたって刻まれた石刻群に描かれているのは、仏教の教えばかりでなく、道教・儒教・さらには庶民の生活である。いずれも写実性が高く、生き生きとしている。めくるめく世界へ足を踏み入れよう。世界文化遺産「大足石刻」。
第335回「開平の望楼群と村落<13>」
~開平第一の楼~
2015年2月26日(木)放送
開平市の東北にある、錦江里(きんこうり)という村に、「開平第一の楼」と呼ばれる楼閣「瑞石楼(ずいせきろう)」がある。1920年代に、アメリカや香港で金融業を営み成功した、黄璧秀(こうへきしゅう)という人物が建てたものである。中国と西洋が融合した建築は近代の開平の住民たちが外国文明に触れた証拠であり、この地にそびえる楼閣の真骨頂である。
今では主を失った楼閣群には、財をなして一時代を築き、世界に散らばっていた華僑たちの、思いの片鱗を見ることができる。
第334回「開平の望楼群と村落<12>」
~田園にそびえる名楼閣~
2015年2月19日(木)放送
開平の自力村(じりきそん)には、比較的保存状態の良い楼閣が水田の中に林立している。その中で最も美しいと言われているのが、1920年代に建てられた「銘石楼(めいせきろう)」。海外で暮らした経験を持つ開平の楼閣の住人達は、中国式と西洋式を合わせた生活を送っていた。楼閣に付けられた名前や、壁に飾られた絵画などには、彼らが海外で培った思想が色濃く表れている。
第333回「開平の望楼群と村落<11>」
~開平楼閣群の数奇な歴史~
2015年2月12日(木)放送
開平で楼閣が最も盛んに作られたのは、20世紀最初の30年間である。清王朝の崩壊を背景に社会の混乱が増大していた中、開平の多くの男たちが、ゴールドラッシュと大陸横断鉄道建設に湧く、北米大陸へと渡った。
「金山客」と呼ばれた彼らは差別に苦しめられながらも、財を蓄えて故郷に錦を飾った。彼らが開平に戻り建設したのは、海外の様々な建築の要素を取り入れた楼閣だった。
第332回「開平の望楼群と村落<10>」
~村人を守る楼閣~
2015年2月5日(木)放送
16世紀半ば、広東省の村落に重厚な楼閣が出現した。
開平の三門里に住む関(かん)氏一族が建てたもので、人々は「救命楼(きゅうめいろう)」と呼んだ。この地を襲う洪水と村を脅かす匪賊(ひぞく)から人々を守ってきたからだ。この地一帯には、1800を超える楼閣が残るが、最盛期には3000を数えたという。
さらなる物語へ誘おう。世界文化遺産「開平の望楼群と村落」。
第331回「廬山<13>」
~廬山を愛した人々~
2015年1月29日(木)放送
陶淵明が廬山をモデルにして描いた『桃花源記』。その結びにある「津(しん)を問う」という言葉は、桃源郷へ行く船の渡し場所を問うという意味である。これは論語からの引用と言われている。孔子は「人の道を求める」ことを「津を問う」と例えた。陶淵明はこの作品で「人の道を求める者がいなくなった」と現世を嘆いている。廬山は始皇帝も登ったという伝説が残るほか、陶淵明の後も李白、杜甫、白居易といった最高峰の文人たちに愛された。
「人の道」を求め続けた人々の辿り着く先、それが廬山なのかもしれない。
第330回「廬山<12>」
~廬山に住む人々~
2015年1月22日(木)放送
廬山の東にある鄱陽湖(はようこ)は、淡水魚の一大漁場である。ここで李満堂さんという若者が網を打っている。別荘地でもある廬山。とくに有名なのは天空に浮かぶ街「牯嶺(これい)」。李さんはある夫婦が営む小さなレストランに魚を収めに来た。夫婦には娘が一人いて、都会の大学で学んでいる。現在の廬山は、幻の桃源郷ではなく、人々が暮らす街なのである。