第359回「麗江旧市街<11>」
~麗江旧市街の建築~

2015年8月13日(木)放送

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明の初代皇帝・洪武帝から「木(ボク)」の姓を与えられ、行政官となったナシ族の族長は、木府と呼ばれる建物に住んだ。その中心的なものが、木氏の子弟たちが漢族の学問を学んだ万巻楼である。かつては儒教の経典や歴史書などが大量に所蔵されていた。麗江には、中国の街には珍しく、城壁がなかった。一説には「木氏の城を囲むと、困という字になるから」だと言われている。

第358回「麗江旧市街<10>」
~ナシ族の街、麗江~

2015年8月6日(木)放送

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西暦1368年、貧しい小作人から身を起こした朱元璋は、明王朝を興し洪武帝となった。そして最後の征服地、雲南攻略に着手する。この時、いち早く明の支配を受け入れたのが、先住民族のナシ族である。族長は洪武帝から「木(ボク)」の姓を与えられ、代々、麗江一帯を支配した。街はいま中国有数の観光地となっている。さらなる物語へと誘おう。世界文化遺産「麗江旧市街」。

第357回「莫高窟<15>」
~女帝時代の莫高窟~

2015年7月30日(木)放送

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690年、則天武后が即位した。武后を支持する者が、彼女を弥勒菩薩の化身であると唱えたため、中国全土で弥勒菩薩像のブームが巻き起こった。第96窟の「九層楼」は、莫高窟で最も有名な建築である。その内部にそびえる巨大な弥勒菩薩「北大像」の顔は、則天武后を模したといわれている。

第356回「莫高窟<14>」
~隋・唐王朝時代の莫高窟~

2015年7月23日(木)放送

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莫高窟の石窟が最も盛んに造られたのは、隋と唐の時代である。隋の皇帝・楊堅は幼い時、寺で育った人物であり、息子の煬帝(ようだい)も仏教を信奉した。隋は30年ほどで終わったが、100近い石窟が掘られている。
全盛期の唐王朝時代には、莫高窟と並ぶ敦煌の石窟、楡林窟(ゆりんくつ)も造営された。壁には「西遊記」の孫悟空のモデルと思われる猿が描かれている。

第355回「莫高窟<13>」
~北周時代の莫高窟~

2015年7月16日(木)放送

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6世紀後半の北周時代、中国の仏教は、歴史に残る大弾圧を受ける。北周の武帝による廃仏である。経典と仏像が破壊され、僧侶は還俗(げんぞく)させられた。ところが莫高窟は当時、西の辺境にあったため、弾圧を免れた。それゆえ、新たな窟の造営は続けられた。当時造られた第428窟の壁画には夥しい数の僧侶の姿が描かれている。

第354回「莫高窟<12>」
~莫高窟初期の石窟群~

2015年7月9日(木)放送

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およそ1000年に渡り、窟が刻まれ続けた、莫高窟。楽僔(らくそん)という名の僧が最初の窟を掘ったのは、五胡十六国時代の西暦366年頃。第268窟は、莫高窟で最も古い窟の一つである。4世紀から6世紀にかけての北魏時代になると、雲崗や龍門など王朝の石窟とは別に、莫高窟は民間の人々の寄付により、独自の発展を遂げていった。

第353回「莫高窟<11>」
~小説『敦煌』の舞台、莫高窟~

2015年7月2日(木)放送

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作家・井上靖の小説『敦煌』。主人公は科挙に失敗したのち、タングートの王朝、西夏の文官となった青年である。
敦煌に戦火が迫る中、青年は大量の貴重な文物を莫高窟に隠す。物語のクライマックスだ。作品は史実を元にした創作だが、青年が文物を隠した窟は、20世紀初頭、実際に発見され、世界に衝撃を与えた。さらなる物語へと誘おう。世界文化遺産「莫高窟」。

第352回「蘇州古典園林<12>」
~隠遁生活の象徴・網師園(もうしえん)~

2015年6月25日(木)放送

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文人が風雅の才を尽くし、作り上げた蘇州古典園林。
志破れ、隠遁生活を送る者たちが建てた数々の建築、その象徴と言える庭園がある。「網師園」は12世紀の南宋時代に造られ、初めは「漁隠」と名付けられた。網師も漁隠も漁師という意味で、自由な隠遁生活をイメージさせる。
釣り糸を垂れる太公望のごとく隠遁した賢者たち。蘇州は彼らが再び世に出るための雌伏の地であった。

第351回「蘇州古典園林<11>」
~明王朝時代の庭園・芸圃(げいほ)~

2015年6月18日(木)放送

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かつて東洋のヴェニスと謳われた蘇州。明王朝末期に建てられた「芸圃」は、現存する庭園の中では比較的古いものである。1000坪ほどの小さな庭園で、景色は明るく開放的、質朴な佇まいだ。明清時代の景観や空気を今に伝えている。ここには400年にわたり、優れた文人たちが相次いで居を構えたという。

第350回「蘇州古典園林<10>」
~水に浮かぶ庭園・退思園(たいしえん)~

2015年6月11日(木)放送

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春秋時代の歴史書「春秋左伝」の一節にある「退思」という言葉を冠した庭園がある。その「退思園」は清王朝に仕えた官僚・任蘭生(にんらんしょう)が19世紀に建てた。弾劾にあって役職を追われ、隠遁したのがこの庭園である。「退きては過ちを補わん」との思いで名づけたという。