ボムミンは平壌を陥落させ高句麗王を降伏させることを宣言する。一方、高句麗では絶大な権力を誇っていたヨン・ゲソムンが死去し、3人の息子たちが権力争いを繰り広げていた。ボムミンはユシンを出征軍の指揮官に任命するが、羅唐軍の統帥権を得たい唐が難色を示し、ユシンは指揮官の座を降りることにする。唐軍と合流した新羅軍は、冬が来る前に一気に平壌を攻め落とそうと提案するが、羅唐軍の指揮官となった李世勣(りせせき)は長期戦を主張する。
倭朝廷が百済復興軍を支援するために兵2万7千人と戦船1000隻を派遣したと聞き、文武(ムンム)王となったボムミンは自ら出征することを決める。ユシンが大将軍(テジャングン)に任命され、百済復興軍との最終決戦に向けての準備が始まる。反唐派だったユシンだが、高句麗征伐までは羅唐同盟を維持してほしいというチュンチュの遺言を守り、唐に援軍を要請する。ボムミンは羅唐軍の統帥権をユシンに託し、唐は戦船170隻を派遣して戦いを前に新羅軍との結束を深める。
分裂した朝廷内の不和を解消するため、チュンチュはボムミンに摂政の座を与える。王座についたことで忠臣に疑いの目を向けてしまった自分自身を振り返り、チュンチュはボムミンに王位継承者としての心構えを説く。その頃高句麗では、唐軍が海路で平壌(ピョンヤン)に進撃してくるのに備え、ヨン・ゲソムンが秘策を練っていた。一方、平壌進撃を目論む唐とまず百済の反軍を討伐したい新羅の意見がぶつかる中、チュンチュの病状は悪化の一途をたどる。
ユシンがいる北漢山城に出征したチュンチュ。ユシンは応戦すれば反逆になると言い、城主のトンタチョンに降伏を命じ、自らは北漢山城を去る。親唐派打倒のために兵を集めるようとしているユシンに対し、チュンチュは出征令を出してインムンにサビの駐屯兵を率いてユシンを攻めるように命じる。ところがサビにユシンとボムミンが現れる。そんな中、チュンチュと対立していることで心を痛めたムンミョン王妃がユシンのもとを訪ねてくる。
挙兵したボムミンとユシンは、廃太子を論議していた貴族らを人質として太子宮に連行する。その知らせを聞いたチュンチュは、全軍に出撃準備を命じる。一方、太子宮では少ない兵力で親唐派の軍に対抗する策が練られていた。北漢(プッカン)山城へ戻り、親唐派一掃に賛同する兵を集めて戦おうという意見に対し、ユシンは挙兵の大義をチュンチュに伝えることが重要だと主張する。そんな中、インムンはボムミンとユシンにチュンチュの意を伝えに行く。