砂漠化の村での一人暮らしとは。。

2008 年 4 月 15 日


おじいさんの家へ

この日は朝からプルダさんのお父さんの家にお邪魔しました。プルダさんの家から車で1時間半ぐらい、途中から舗装道路を外れて土のガタガタ道が1時間近くも続きます。ようやく到着するとお爺さんはもう働いていました。羊にエサをやったり薪をとってきたり常に動き回っています。今年64歳ですが歩くのも速い。私たちがかなり一生懸命歩かないとついていけないほどです。四方を砂漠に囲まれた盆地のようなところにぽつんと家があり、羊や牛を飼って生活しているのです。もちろん1人で。。靴の先には穴があき、家には水道も電気もありません。キセルは動物の骨で作られています。お昼前、おじいさんが奇妙な行動を始めました。トウモロコシの根を集めては砂漠のほうへ持っていき1ヶ所に捨てて(置いて)いるのです。「一体何?」聞いてみるとこれが砂を防ぐ生活の知恵。砂漠と草地の境界線にこれを置くことで砂の移動を食い止めようとしていたのです。 実際これだけのことでかなりの効果が出ているらしいです。何度も何度も集めては捨てる作業の繰り返し、かなりの重労働です。


積んでいるのはトウモロコシの根 これで砂を止める!?


何度も砂地に運ぶ

午後1時を過ぎるとお昼ご飯。普段はお茶(塩辛い)だけのこともあるそうですが、今日はギャラリーが多いので何か作ろうとしているようです。薪に火をつけるとみるみる炎が部屋に設置された大なべを熱します。その中に倉庫から持ってきた羊肉の燻製、ジャガイモ、高菜?他もろもろの食材が入りおいしそうな鍋料理ができていきます。主食の粟にかけて雑炊のような食べ物が完成。取材班は迷惑をかけまいとカップラーメンを持参していたのですがあまりにおいしそうなのでカップラーメンを食べたうえ、さらにご馳走になりました。


いつもは1人きりで食事

そんな中、朝からつらそうな人物が1人います。そう児島記者です。2日酔いで仕事になりません。暇を見つけては横になっています。


2日酔いで苦しむ児島記者

さて、ご飯を食べるとお爺さんは外へ。おじいさんは自分の敷地を越えてズンズン歩いていきます。1キロほど歩くと別の家がありました。中には幼なじみのおばさんが住んでいました旦那さんは出かけているようです。実は50年前からの付き合いだというこのお宅、やはり子供はみんな町へと出て行ったそうです。お爺さんの唯一の話し相手で、同じようにこの地を愛し、放牧を愛しています。みなさん口をそろえたように「雨が減った」といいます。年間雨量200ミリが草が生えるかどうかの境界線だといわれます。以前は500ミリ程度だったこのあたりの雨量はここ数年は100~200ミリ、気候の変化も砂漠化を追い討ちしていることは間違いなさそうです。おばさんによると砂嵐や黄砂も明らかに数十年前よりひどくなっているといいます。


タバコを吸う横顔

午後のひとときを終えるとおじいさんは再び自分の敷地へ。そしておじいさんにロングインタビューを敢行しました。ここで活躍したのが前出のスーパー運転手のタメちゃん。おじいさんは中国語がほとんど分からないのでモンゴル語でインタビューします。私から金さん、金さんからタメちゃん、そしてお爺さんの伝言ゲームは日本語→中国語→モンゴル語と2段通訳になります。でも帰ってくる答えを聞くと、実に的確にこちらの意図を伝えてくれています。30分以上に及ぶ外でのインタビューが終わるとおじいさんは羊やヤギにえさをやりに。と、我々の目の前で囲いから出たおそらく30匹はいるであろうヤギがお爺さんの敷地の柵を越えて外へ出て行っているではないですか。「おじいさん、ヤギが出ていってるけどいいの?」この言葉をきいた途端、お爺さんの表情が一転、あわてて走り出す。ヤギの脱走だ!。走っておいかけるお爺さん。しかしヤギの姿は見えない。私たちもあとを追いますが砂漠を走るのは予想以上につらく、日ごろの運動不足のせいか64歳のお爺さんに追いつけない。途中で断念し、家の前でおじいさんの帰りを待ちました。1時間以上経ったころお爺さんが何事もなかったように帰ってきました。もちろんヤギは無事に全部柵に追い込んでいました。やはりすごい!の一言。


ここで生活 裸電球1個だけ

午後7時、日が暮れてきました。一日の生活リズムを聞くと「日が暮れたら寝るよ。」と答えたお爺さん。風力発電で裸電球にかすかな明かりが灯ります。そんな薄明かりの中、ひとり座ってタバコを吸う姿には何ともいえない寂しさが漂っています。昼間はこんな生活も気楽でいいなあと思っていましたが、やはり耐えられそうにありません。。人間は人間がいて初めて人間らしくできるんだと考えさせられました。


右端が家 横は倉庫


骨で作ったキセルと皮で作ったタバコ入れ

夜はホテル近くのレストランで食事。2度目の酒のない夜でした。幸せ~ でも金さんはしっかりバーに行っていました。

ついに来た!凄惨な白酒大会

2008 年 4 月 14 日


移民村

きょうも村の取材。プルダさん一家は豚を飼っています。本来モンゴル族は豚は飼いませんがこの村の人は多くが豚を飼っています。今、中国では豚肉の値が急騰、去年上海で聞いたところだと1年で2~3倍ほども値が上がっているそうです。ということでプルダさんの豚を見に行くと2月に来たときより数が激減。どうしたのか聞いてみると「売った」と短い答えが・・1匹が最高で1600元(約2万4000円)でうれて、全部で7匹、1万2000元(18万円)にもなったそうです。自分で売りに行くのではなく仲買人が買いにくるのだそうです。ちなみに羊は1匹100元だといいますから、いかに豚の値が高いかお分かりいただけると思います。逆に言うと羊の放牧なんか、ばからしくてやっとれんのじゃないかと思いますが、やはり放牧というのはモンゴル族に数千年も脈々と伝わる文化。特に老人はそれ以外の仕事をすることにかなりの抵抗を持っています。プルダさんと同じ村に住むおばあさんに、ここでの生活を問うたところ、「便利で楽だけどやはり生まれた場所で放牧生活がしたい」とのこと。


与えられた土地

実はここウーシン旗はモウス砂漠という砂漠化地帯にあります。地元政府はここに限らず4月から6月末までの草が生長する期間を「禁牧」とし、牧民たちはその間、羊やヤギを柵の中で飼わなければなりません。当然、餌は自分で用意することになり費用がかさみます。この政策や植林活動などで緑が回復している地域もありますが、一方でモンゴル族の生活は厳しくなっています。放牧から飼育へ、田舎から都会へ、そんな生活の変化に若い人はついていきますが、放牧に誇りを持つ老人はそうはいきません。我々日本人にとって砂漠化という現象は頭では理解していても、遠い国の話としか感じられないところがあります。でもそこに住んでいる人たちにとっては生活が一変してしまうほどの大問題なのです。今回の番組では砂漠化、黄砂の原因と恐さを紹介するだけではなく、そこに住み生活する現地の人々の心の葛藤などを通じて、日本の人たちにも砂漠化をすこしでも身近な問題として捉えていただけたら幸いだと思っています。


首に棒をつけられた脱走の常習犯


柵をなおす親子

話がまじめになりましたが、この日は一日中、プルダ一家の生活に密着しました。この日も特に大きな動きもなく平凡な日常ではありましたが、インタビューではここでの生活に対するプルダさんの気持ちが無言の「間」にあらわれています。ぜひ番組でチェックしてみてください。あさって、プルダさんがお父さんに久しぶりに会いに行くそうなので、我々は明日、一足早く行ってお父さんの取材をしようと思っています。最後はダプ局長のインタビューで終わり。すべて順調なのはこの局長のおかげなのです。感謝しつつも、今晩のおそらく憤死するであろう宴会を考えると気が重い取材班でした。児島記者のがんばりに期待するのみですが・・・


断ることが不可能な白酒

さて、去年の新疆ロケではアルコール52度の白酒に増田カメラマンを除く全員がぶっ倒れました。内モンゴルの白酒は通常38度なので多少飲みやすいのですがこれが余計にたちが悪いのです。午後7時、その恐るべき宴会は始まりました。ダプ自然環境保護局長主催の宴は想像を超えて豪華なものでした。私たちも交えて全部で15名ほどはいたでしょうか。その中には日本に留学していたという2人のモンゴル族女性もいました。特に名古屋に去年までいたというウランさんはトークがすごい。日本語で機関銃のようにしゃべりたおし、中国語のわからない日本人スタッフを全く退屈させない。さらにはアコーディオンの現地では超有名な先生や歌手なども用意されていました。本来ならとても楽しいはずの宴会ですが一方では、容赦なく「乾杯」の声が飛び交っています。乾杯は字の通り「乾杯」。残すことは許されない。それでもカメラマン増田氏は相変わらず1滴も飲まない。倒れられては仕事にならないので私も必死で彼の防御に回る。清水氏は去年のひどい思い出(意識不明)を教訓に、極力目立たないようにうまくやっています。私と金さんは飲まされ役ですが、無駄な酒を飲まないようメリハリを利かせていました。


コーディネーターの金さんも

1時間が過ぎ宴も盛り上がってきました。ここからが生死を決めるといって過言ではありません。小さな杯で10杯20杯、この辺まではそこそこ強い人なら大丈夫。しかし「あれ、意外と大丈夫じゃん!」と思った時点ですでに地獄の入り口に立っているのです。突然足が立たなくなるのです。 さて、そして宴はエスカレート。歌手が一人ひとりの前に立って歌を聞かせ、終わるとでっかい碗で一気飲みしなければなりません。これを飲んですぐ私はトイレに行き吐いておきました。汚いようですがこの作戦はかなり有効なのです。一方増田氏も「飲めないのならジュースで一気しろ」とみんなから攻められています。特にウランさんの“口撃”が激しい。苦痛に顔をゆがめながら大量のグレープジュースを飲み干す増田氏。この辺から私の記憶もやや薄れていくのですが、まだ恐ろしさをしらない児島記者は快調に飛ばしています。やめればいいのに大きな碗で2杯も一気している。そしてそのあとイスごと床に転げ落ちていました。


苦しそうな清水氏


がんばる児島記者

歌あり踊りあり、そして宴は終わりました。気がつくと児島記者の意識がないようです。レストランの美しいカーペットの上にはおびただしい吐しゃ物が。「弁償させられないだろうか」そんなことを考えながら、ただ1人しらふの増田氏を中心に部屋まで連れて行き服を脱がせ靴を脱がせ横にさせました。何故かウランさんもいます。寝たまま吐く児島記者、窒息の危険があるのでしばらくは増田氏が様子を見ることにしてみんなで記念写真。


意識がない児島記者を介抱する


みんな酔っ払い

さて、終わりと思ったその時、ウランさんがバーに行こう、金さんも行くと言っているから」と誘う。仕方なくホテルの前に出ると金さんの目がうつろだ。「金さん行くよ」と呼びかけても返事がなく焦点が合っていない。「もうだめだ泥酔している!」と悟った私は金さんを残しウランさんたちと日本の焼酎が飲めるというそのバーへと向かった。ホテルからすぐ近くにあるそのバーは落ち着いた雰囲気で中は広くとても快適だった。そして焼酎を注文、ここで私の記憶は途切れる。後で聞いたところによると焼酎を2本飲んで外で吐きまくっていたので、さっきの宴にいたアコーディオンの大先生が部屋まで送ってくれたそうだ。かくして壮絶な夜は終わりました。

これが万里の長城!

2008 年 4 月 13 日

いよいよ今日から本格ロケ開始!気候も天気も最高です。朝、お世話になったスチントウさんと校長先生が帰って行きました。今回のロケはほとんどがスチントウさんの人脈頼りなので急に心細くなる取材班。ところが思わぬところに強力な助っ人がいました。ここからはダプ局長が用意してくれた2台の運転手つきの車(もちろん有料です)で移動、うち1人、モンゴル族の運転手がすごい。おっさんに見えて年は児島記者とタメ(同い年)の30歳(以後取材班の中ではタメちゃんと呼ぶ)、好奇心旺盛でカメラに異常な興味を示すは、夜中じゅう公安と一緒に張り込みをして木泥棒(植林の木を盗んで売る輩がいるんです)を捕まえるは、とにかく素性がわからない。さらには100匹の豚を飼っていて、価格高騰ですごく儲けているらしいということまで判明。


揄林の万里の長城


土でできた万里の長城にて

さて、まずは万里の長城へ。といっても北京郊外で見られるような立派なものではありません。万里の長城は秦の始皇帝が作らせたものですが、今残っているのは明代につくられたものが多いのです。最強と言われたモンゴルの騎馬民族は非常に恐れられていて、万里の長城の北側の大部分が内モンゴルになっていることからも騎馬民族の進入を防ごうと必死になっていたことが伺えます。私たちが行ったのはウーシン旗から南東に車で2時間、内モンゴルを少し出た陝西省の揄林にある長城です。大部分が土でできていて大きな土壁といった感じです。それにしても全長6000キロの長城を造るのにどれだけの労力を費やしたのでしょう?そしてどれだけの効果があったのか?考えさせられます。


移民村 プルダさんの家

午後からはウーシン旗に戻りロケハンの時に取材した3人家族を取材。無口なお父さん(プルダさん37)と、中国語がうまいしっかりものの奥さん(トゥヤさん35)そして4歳になる娘さん(アイラゴンちゃん)いつも突然の訪問なのですが嫌がることもなく淡々としています。明日、あさっての取材の内容を話し夕飯シーンを撮影。何を作るのかトゥヤさんに聞くと、「何も作らないよ」との返事、冗談と思ってみていると、本当に卵炒めとご飯だけのとても質素な食事でした。今日は特に問題もなく平凡に(ロケ的には困るのだが)1日が過ぎていきました。そして夜はウーシン旗の中華料理店で酒のない食事。酒がないということだけでみんな元気が出てくるのです。でもたぶん明日からは・・・ 明日も同じ場所のロケです。


料理するトゥヤさんと娘のアイラゴンちゃん