過酷で心苦しい一日

2008 年 4 月 18 日


植林用の苗木 運転手前が見えるのか?


走行距離41万キロ(80万キロのも見ました)

今日は前回のロケハンで車が故障し行けなかった砂漠に囲まれた家へ行くことに。2台のパジェロで砂漠地帯へと向かいます。運転するのは次男と隊長です。走り始めて間もなくナレンファさんが私に、「砂漠はあるけど埋もれそうな家はないよ」といい出しました。「この前あるって言うたやん」という気持ちは抑え(海外ではよくあることです)さてはあまり乗り気でないなと感じたので、金さんに「行きたくなさそうだけど何とかして」とお願いしました。金さんの交渉のおかげでどうにか向かうことに。その先に起きる事態をこの時はまだ知るよしもありませんでした。


砂漠の中にわずかな緑と家が


ここで1人住む牧民


半分土に埋もれ風化した家

30分も進むと“砂漠化”ではなく、本格的な“砂漠”に景色が変わっていきます。パジェロとはいえ細かい砂が積もった砂漠、しかも風のせいで起伏が激しくなっているので登りはタイヤがスリップして何度も停止するなど悪戦苦闘です。運転手もプロではなく免許とって間もない人たち。ここで車が壊れたらどうなるんだろうという恐怖が湧いてきます。それでも1時間半以上走りどうにか見つけました。四方を砂漠に囲まれて飲み込まれそうな家です。見ると防砂林をつくりヤギを飼っているではありませんか。どうやら住人は男性1人のようです。1964年に建てられたという土壁でできた小屋はぼろぼろになって、砂が下から積もってきていました。インタビューを敢行しようとすると、「長い間一人暮らししているので話せなくなっているよ」とナレンファさん。「じゃあ簡単な質問だけでも」と食い下がる私。「ずっと一人ですか?」などここでの生活についてモンゴル語を介して質問しました。ところが、あとで取材班だけでもう一度小屋の中を撮影している時に彼に中国語で話し掛けてみると、きれいな発音の中国語で小屋のできた年や、小屋の土の原料や辺りの以前の様子を答え、「こんなところを撮影してどこで放送するの?」と逆質問してくるではありませんか。話せないどころかいたって普通です。推測ですが今回、ついてくる予定だったオトク旗政府のお役人を振り切ってロケに来ているのでナレンファさんに多少圧力がかかっているのかなと。そう考えるとここに来ることにあまり乗り気でなかったのも頷けます。


湿地に埋まったパジェロ


こうなると抜け出すのは不可能


どうやってもダメでした

ロケが終わりました、帰りは遠回りしてでも砂漠ではない道を帰ることにしました。  一瞬ほっとしたものの今度は湿地帯が。午後2時、しばらく走ったところで私たちが乗っていた2台目が湿地にタイヤをとられストップしてしまいました。降りてみるとタイヤの3分の2が泥の中にうまっていて出ようとすればするほど埋まっていきます。素人では無理と判断し、1台目の無事な車が修理の人を呼びに行きました。といっても人のいない場所です、1時間くらいしてようやく戻ってきました。「大丈夫、大丈夫」その男の力強い一言に救われた気持ちになりましたが、1時間待っても抜け出す気配がありません。そのうち修理の男はみんなが必死で働くのを尻目にサボっています。そして「もう疲れた」と言い残し返ってしまうではないですか!!もう午後5時前、まもなく日が暮れます。そして7時からは植林隊が到着し宴会の撮影が…そこで金さんの英断、ナレンファさんと運転手1人を残して私たちは生き残った車で先に宴会場に行くことになりました。(2人を見捨てる気がしてとても気が引けましたが・・)

そして、午後7時からオトク旗林業局主催の歓迎の宴が始まりました。金さんはなぜか林業局長の通訳をやらされ、坂本さんはモンゴル民歌を熱唱、明日が植林本番ということもあり日中双方ともそれほど羽目をはずしませんでした。おかげで私たちも倒れるほどは飲まされず、無事ホテルへ戻りました。そのホテルの話しですが、今回は林業局が運営する林業賓館というホテルに3日宿泊します。私たちの宿泊費は1泊1人1500円。ただし、従業員はフロントも合わせて2人、風呂場のタオルは濡れて汚れています。おそらく前日に誰かが使ったものがそのまま放置されているのでしょう。お湯は水の出がポタポタという感じなので、手で集めて体にペタペタ塗ります。でもお湯が出るだけましです。そしてここだけではありませんが中国の田舎のホテルはトイレットペーパーが全長1メートルぐらいしかありません。もちろん、盗まれるから最低限の量にしてあるのですが、下痢でもして複数回行ってしまうと「紙がない!」ということになるので私は必ず日本から1ロールもって行くようにしています。

そして、湿地帯に残されたナレンファさんと隊長はどうなったのでしょう?実はあの後夜11時までかかって最後は人を15人集めて車を持ち上げ、乾いた地面まで運んだのだそうです。電気も何もないところで・・泥にまみれながら。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

オトク旗への移動。再びナレンファさんの家へ

2008 年 4 月 17 日


坂本さんとナレンファさんの牧場
禁牧期間なので柵の中で飼います


柵から出たがるヤギたち

昨日までの好天から一転、何やら雲行きが怪しい。11時にオトク旗の林業局長と待ち合わせだったので9時半に出発。居心地のよかったウーシン旗の4つ星ホテル(とはいっても1泊3000円くらい)ともおさらばだ、きっとこれから先こんないいところには泊まれないだろう。。ところでチェックアウトのとき、レシートに“賠償費”の項目が。そう、14日夜の児島記者のそそうの清掃費がしっかり100元(1500円)とられていました。さて、ここから北西の方向にあるオトク旗の中心ウラン鎮までは車で1時間半ほど、進むにつれ風が強くなってきました。今回のロケでぜひとも砂嵐を撮りたかったのですが、ようやく途中の道で撮影できました。若干迫力に欠けますがこればっかりは・・・オトク旗につくと運転手のタメちゃんとはお別れです。彼は最後まで増田カメラマンのデジカメをほしがっていました。


ヤギの撮影

坂本さん主催の植林隊は明日の夕方にオトク旗に入ります。坂本さんには1日早くうオトク旗に入ってもらって合流、今後の予定などをチェックしました。そして林業局や植林の村の人たちと昼食です。林業局の包局長の「昼なのでお酒はなしで」という挨拶で始まった昼食でしたが、いつの間にやら白酒が振舞われています。今回は仕事を理由に何とかほどほどにかわしました。坂本さんが今日は林業局長と一緒に過ごすとのことだったので取材班だけでスージー村のナレンファさんの家に行くことに。ウラン鎮からガタガタの砂漠道を走ること1時間半、ナレンファさんの家に到着です。前回と特に変わった様子はありませんが、禁牧期間に入ったので羊やヤギはすべて狭い柵の中で飼われています。さっそくエサやりを撮影、ナレンファさんのところはカシミヤヤギが主たる収入源です。カシミヤを知っていてもヤギのどの部分のどういう毛か知らない人も多いと思います。私も知りませんでした。ナレンファさんが実際にとってみせてくれました。ぜひ番組でご覧ください。カシミヤ製品を見る目が変わると思いますよ。

中国政府の政策でヤギの数も半減させられ、囲いの中で育てるための飼料代も増えているなか、ナレンファさんは独学で人工授精の資格を獲得し自宅横の小さな小屋ですべて自分で交配しています。こうした改良で1匹あたりのカシミヤの採取量が3倍になり品質も向上しているため収入はむしろ増えたそうです。取材ではこの人工授精の部屋も見せてもらいました。交配が行われるのは10月なので残念。坂本さんは約450万円を投資してオスの種ヤギを提供しています。第一回の交配で生まれた子供たちがたくさんいました。1年後にはカシミヤが採れるそうです。この品質がどうなるかが大きく収入を左右します。ちなみに去年買った種ヤギは1匹で30~60万円もします。病気で死んだりしたら大変です。


食堂のご主人と奥さん

今晩はロケハンの時に続きナレンファさんの家に泊めてもらうことに。夜は近くの共同食堂みたいなところで夕食です。ナレンファさんとこの前結婚した次男、村の隊長が参加しての食事会です。やはり出てきました白酒。ふと見るとすごく大きな銀の碗が、聞くとこの村に100年伝わる伝統の碗なのだとか。どんな碗で飲んでもきついのは同じですが、貫禄ある碗で飲むのは少しだけ得した気分になりました。次男は全く飲めないようです。(この辺りの人で酒が飲めなかったらどうするんだろうと余計な心配をしてしまいます。)料理はみんなが大好きなモンゴルの肉じゃがとも言うべき「ホイツァイ」これが本当においしくて私はいつもご飯を食べすぎてしまうのです。食べ終わるとやはり9時には就寝、年の順に部屋で3人、ソファーで2人が寝ました。


村に100年伝わる伝統の碗


伝統の碗で飲んでも白酒はきつい!

親子の再会

2008 年 4 月 16 日


おじいさんが住む土地

ロケもちょうど半分をこえました。このころが体力的にも気力的にも疲れのピーク。特に白酒に体力を奪われている取材班は予想以上に疲れています。ということでこの日は集合を11時に。久しぶりにゆっくりと眠ることができました。さて、今日はプルダさん一家がおじいさんに会いにいくというので同行させてもらうことに。大体1ヶ月に1度会いに行っているというプルダさん。


家族4人で柵なおし


プルダさんたちが来た目的はトウモロコシの天日干し

午後2時ごろ、おじいさんの家に到着。孫のアイラゴンちゃんと会えてお爺さんもうれしそうです。今日は取材班にあのマシンガントークのウランさんが同行してくれました。日本語⇔モンゴル語の通訳ができるので、かなり時間が節約できるはず。到着してお茶を飲んだかと思うとすぐに何やら作業開始、トウモロコシを干し壊れた納屋を直す。「いいところに来た!」という感じで次々に仕事するお爺さん。それでも4人で一緒にヤギの柵を治す姿は微笑ましく感じました。。


お手伝いするアイラゴンちゃん


夕方 別れの時

そして夕方お別れのとき。何となく寂しげな感じだが顔に出さないお爺さん。軽トラで帰っていく息子家族を見送りました。そしてすべてのシーンの撮影が終了、私たちもいよいよお別れのときです。帰り際に「また8月に来ますよ」と声をかけると「今何月だっけ?」との予想外な質問が、「4月ですよ」、おじいさんは指折り数えて「おおそうか!8月か!」と大喜び。僕たちが見えなくなるまで見送ってくれました。また来ます~お元気で~!

その日の帰り道は12日の夕日にも増して美しい夕日。そんな中、プルダさんの車に同乗していた児島記者とウランさんは悪戦苦闘していました。車内でプルダさんに、おじいさんを1人残す気持ちなどを聞きたかったのですが、何を聞いても「うん」「はい」。奥さんのトゥヤさんが気を使って答えると、「それと同じ」。ずっとこんな感じでした。怒っているわけではないのでしょうがとにかく無口なのです。

さあ、きょうでウーシン旗のロケは最後、明日からはオトク旗へと移動します。ということは、そうです“最後の晩餐”がまっているのです。前回はダプ局長側に接待していただいたので今回は我々が主催。前回ノックアウトの児島記者はすでに白酒の匂いをかいだだけでフラッシュバックが起きる恐怖症に陥っていました。ダプ局長の横に座った私は逃れることもできずやはりいい感じに出来上がってしまいました。1件目で白酒をさんざん飲まされた後は、この前私が意識を失ったバーに出撃。ビールやらたくさん飲んで途中眠ったりしましたが、意識は最後まで残っていました。ダプ局長は上機嫌でカラオケを歌いまくり、これにてご接待も終了。