◎プロローグ
1100年の雅が息づく京都に、独自のおもてなし文化を形成している花街・祇園。かつて祇園のお茶屋遊びは、江戸の「粋(いき)な客」、上方の「粋(すい)な客」が支えていた。単に金持ちの遊興としてではなく、舞や芸を愛でる心、酒宴をたしなむ心、人間同士の繋がりを大切にする心を通わせることを目的にしていたのである。
◎格式と敷居の高さでは祇園一のお茶屋「一力亭」。
京都には5つの花街があるが、一般に祇園とは、祇園甲部、宮川町、祇園東のことを指す。そのお茶屋の老舗と言えば、創業およそ300年の「一力亭」。芸舞妓は一力亭の座敷に上がることを誉れと思い、訪れる客は浮世の喧騒を忘れ、その艶やかさに酔いしれたと言われる。お茶屋とは、「屋形」から芸舞妓を手配し、座敷を提供する店のこと。そのため、室内は季節によって簾から障子へと模様替えされるなど、気配りが施されている。一力亭には、今なお悠久の時間が絶え間なく流れているのである。
◎島原から祇園へ、受け継がれてきた花街の文化。
京都の花街の前身は島原だった。その一角には、太夫や芸妓を抱えた置屋の「輪違屋」と、太夫や芸妓を呼んで遊興の場を提供した揚屋の「角屋」が残っている。角屋は、遊興の場であるとともに多くの文人や俳人が集い、文化サロン的な役目も果たしていたことから、太夫や芸妓は、歌舞音曲以外にも様々な教養を身に付けていなければならなかった。島原が隆盛を極めていた頃、八坂神社は花見や月見の地として賑わうようになった。そこへ自然と茶を振舞うお茶屋が立ち並び、客をもてなす茶立女が置かれ、茶が酒となったことがお茶屋の発祥と言われている。やがて、歌舞伎の始祖である出雲阿国が登場し、鴨川の四条河原に芝居小屋が建ち始めると、祇園はさらに賑わいを増し、一大遊興の場として知られるようになった。そんな中、人々の足は衰えが目立ってきた島原から八坂神社周辺に移り、島原で培われた文化は祇園へと受け継がれたのだった。
◎祇園に根付く、茶の湯の原点「おもてなしの心」。
「おもてなしの心」の原点は、京都で千利休が確立した茶の湯にある。中でも祇園は、それを取り入れた伝統としきたりが色濃く残っている街である。招かれた客ともてなす亭主の間で交わされる一期一会の縁。茶の精神とは、主と客が暗黙の了解のうちに、お互いの心を通い深めていくことにある。これは、祇園の日々の挨拶にも溶け込んでいる。8月1日は「八朔」と呼ばれ、芸舞妓が世話になっている人々へ挨拶回りに出かける。昔は八朔を「田の実」の節と言ったが、そのうち「田の実」が「頼み」に変わり、このような風習が起こったのである。また祇園には、初めての客を取らない「一見さんお断り」の風習も続いている。それには、贔屓にしてもらっている客への恩を大切にし、特別扱いをするという洗練された「おもてなしの心」がある。女所帯の世界であるお茶屋は、どんなに金を持っていようと素性のわからない客は危険だったことから、現金払いではなくすべて後払いのツケと決まっている。信頼できる相手でないと、この取引は成立しないという証である。祇園の「おもてなしの心」とは、目先の利益より常に人間関係を重んじることにある。
◎祇園に春を告げる、華麗な京舞「都をどり」。
毎年4月、祇園の歌舞練場では、左右の花道から桜と柳の枝を手にした舞妓たちが、華やかな「都をどり」を披露する。明治5年、京都博覧会の余興として発案され、京都に春を告げる風物詩として多くの人々に親しまれている。お茶屋遊びをする場所を「花街」、座敷に上がることを「お花に上がる」、指名料を「花代」と言うが、花の優美さ、可憐さ、儚さを慈しむ心を持った人々が、こうした祇園の座敷文化を支えているのである。
◎祇園の伝統は、仕込みさんから舞妓、芸妓へ。
伝統やしきたりは、祇園に生きる芸舞妓の心意気にも受け継がれている。舞妓になるには、屋形で「仕込みさん」と呼ばれる見習いとして、京舞の稽古、京言葉、行儀作法の習得、先輩舞妓の手伝いなどの修業をする。数人の共同生活の中で、自由時間やプライバシーもなく、祇園にふさわしい舞妓になるために日々感謝、辛抱、反省の厳しい躾を受けるのである。一年の仕込み期間が終わると、京舞の師匠から許しをもらい、舞妓として「店出し」という門出を迎える。襟足には特別な日にだけつける三本足が塗られ、新人の舞妓を示すため下唇だけ紅がさされる。豪華な衣装を着付けられた後は、おかあさんや先輩の芸舞妓と固めの盃を交わし、祇園の伝統を守ることを誓う。この儀式が終わると、舞の師匠や得意先に挨拶回りに出かけ、新しい舞妓が誕生するのである。
◎祇園の世界を陰で支える、さまざまな裏方の技。
芸舞妓の髪型は、特殊技能を持った髪結いが、のばした地髪で「割れしのぶ」という形に結い上げていく。髪型は、経験年数や季節、行事によって変えていき、艶やかな花簪で美しさを引き立てる。やがて舞妓が20歳前後になると、芸妓になる「襟替え」を行う。また、着付けは「男衆(おとこし)さん」と呼ばれる男性の仕事。約20キロにもなる着物を手際よく着付けていき、5メートルにも及ぶ帯を力強く締め上げる。こうした陰の裏方たちがいて初めて芸舞妓は輝くのである。
◎エピローグ
10月、京舞井上流の発表会「温習会」が開かれる。芸舞妓にとって、この舞台に立つことは晴れがましい名誉であり、誇りでもある。それだけに、春の「都をどり」のような華やいだものではなく、この会は舞の研鑽を目的とした厳しさが漂っている。秋の温習会が終わると、いよいよ祇園も年末年始へ。正月の始業式では、「芸妓・舞妓の誓い」という5箇条を全員で唱和する。この5つの誓いの中に、現代の日本人がどこかに置き忘れた「おもてなしの心」があるのかもしれない。
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